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2006年4月

2006年4月30日 (日)

高野山について考える-ラピュタ-

Ktyoseki言うまでもなく、あの空海がひらいた真言宗の総本山金剛峰寺のおかれている山である
辞書によれば、和歌山県高野町にある海抜850mの山上に開かれた東西4km・南北2kmの寺院と弘仁7年(816)に空海が修禅の道場として開創した西の壇上伽藍と、承和2年(835)3月21日に、61歳で生身のまま禅定に入り衆生を救済しているとの入定信仰を生んだ空海廟のある東端の奥院が中心で
空海の密教理論に基づき南北に中門・講堂(金堂)・僧房をhttp://scoophand.cocolog-nifty.com/k-danjo.MP4、後方に胎蔵と金剛界を象徴する大塔・西塔http://scoophand.cocolog-nifty.com/daito.MP4を配置し、仁和年間(885~889)に真然(しんぜん)により一旦完成
その後鎌倉時代に入って、壇上伽藍についで順次周囲の谷々が開かれ、十谷に塔頭・子 院・別所が建ち並び、ほぼ現在の規模となったと言われる
http://scoophand.cocolog-nifty.com/gokurakubashi.MP4

空海は、古代の有力氏族につながる讃岐佐伯氏を出自として宝亀5年(774)に生まれる。18歳で大学に入るが、土佐室戸崎などで修行をして強烈な宗教体験の中で仏道を志したと言う。
延暦16年(797)、23歳で有名な「三教指帰」(聾瞽指帰)を書いて出家。
延暦23年(804)、30歳で37歳の最澄と共に唐に渡り、長安青竜寺の恵果から胎蔵・金剛界・阿闍梨位などの密教を受法。最澄は天台教学や金剛密教を受けて翌年帰国。
これに対し空海は大同元年(806)に32歳で帰国。密教が仏教の中で最高の教えであるという「弘法大師請来目録」を進献。しかし最澄はその前年に、勅により高尾山で密教の灌頂をおこない、この年には天台宗年分度者が2名認可され、日本における天台宗の開創となっている。
空海は大同4年(809)の35歳になって高雄山寺に入り、当時23歳の嵯峨天皇や42歳の最澄らと出会い、最澄とも不完全な密教部門の充実のために交流を始め、弘仁3年(812)には38歳で、45歳の最澄に灌頂を授ける。しかし互いの密教観の相違から39歳の弘仁4年(813)に46歳の最澄と決別。
弘仁7年(816)、42歳で本格的な密教寺院を建てるために高野山を請う。
弘仁13年(822)、48歳の時、南都密教化の拠点として東大寺に真言院を創立。
弘仁14年(823)、49歳で嵯峨天皇から造営のはじまった官寺の東寺を、真言僧50人を常住させる真言宗の根本道場としてもらい、翌年に50歳で造東寺別当となる。日本初の庶民のための学校として東寺のとなりに綜芸種智院を開設したのは、それから4年後の天長5年(828)で空海が54歳の時だった。

歴史の面白さは、歴史上の人物と各自の人生を重ね合わせたときの様々な思いにもみられるが、空海の年譜をみていくと彼がとても人間味のあふれた身近な存在に思えてくる
最澄は55歳、空海は61歳で死んでいるが、激しすぎる人生を行き急いだふたりだった

延喜19年(919)金剛峰寺は東寺長者観賢が金剛峰寺座主を兼務することで東寺の末寺となり、正暦5年(994)には火災により衰退するが、長和5年(1016)に興福寺系の持経者祈親上人定誉を中心に復興が進められ、この時以降、空海の入定信仰がひろまり、治安3年(1023)の藤原道長の参詣をはじめとする藤原頼通・白河上皇・鳥羽上皇らによる支援が行われ、修行の寺から信仰と天下の霊場へ変貌していったという。

浄土教の普及にともない有名な高野聖も11世紀後半から多く生まれ、鎌倉時代以後は武士の信仰もあつめ(北条政子は頼朝のために金剛三昧院(国宝の多宝塔がある)を建てた)、多くの荘園を領有してその後の繁栄につながる
高野聖とは、諸国を勧進して高野山の信仰をひろめながら堂舎修復の資金をあつめた聖のことで、正暦5年(994)におきた大火後の復興に尽力した祈親が最初とされる
金剛峰寺の組織下にはなく、小田原谷・往生院谷・萱堂などの別所に居住して、真言念仏や時宗などを修めながら他寺とも交流したといい、室町時代に入ると、勧進のかたわら商業にも従事

ところで空海がこの地を求めたのはなにによるのだろうか
史料によれば、空海が室戸を始めとする各地で修行をしていた時期、高野山もおとずれ、高い峰に囲まれたその風景を「八葉蓮華」にあて、嵯峨天皇に願いでたという
こういった縁起と風景に関わるエピソードは、京都府和束町の西にある鷲峰山金胎寺の由来にもみられ、嵯峨天皇が現在の大覚寺の地に離宮を選んだ背景にもつながるが、高野山には、もうひとつ非常に興味深い伝説がある

『金剛峯寺建立修行縁起』によれば、空海が修行で各地を巡ってきたとき、大和国宇智郡(五條市)で黒白2匹の犬を連れた狩場明神に出会う。空海はその犬についていくと、紀伊国天野(和歌山県かつらぎ町)で丹生明神に出会い、高野山を譲り受けたというものである

高野山と丹生神社との関係については、1990年代の後半に広島県世羅町の高野山領太田荘と康徳寺古墳(後期古墳と古代寺院がセットの例)を見に行ったときに、今高野(龍華寺)で森先生から聞いていたことを思い出したが、丹生は水銀朱の丹に通じて、前期古墳が多い奈良県桜井市の東の宇陀に丹生神社があることから、古代における丹の重要性を前提にすれば、この伝説はまた別の意味をもってくるかもしれない

そういえば、嵯峨天皇が嵯峨院で実質的な政治をおこなった背景には、その西の「丹」波が大きな意味をもっていたとの説明もある
なお道に迷い導かれるというストーリーは愛知県宝飯郡一宮町にある砥鹿神社 (とがじんじゃ) にもあって、『砥鹿神社縁起』によれば、草鹿砥公宣が本宮山中で道に迷った際、童子を連れた老翁(大己貴(おおなむち)命)に導かれ、公宣は老翁に感謝して宮を麓に造ったと伝える

Kdaimonあるいは、最澄は出自が近江の三津首で空海は讃岐の佐伯だが、それぞれの出自に近い場所にちなむものなのだろうか
今日は曇っていて見えなかったが、金剛峯寺の西の大門からは遠く四国が見えるというhttp://scoophand.cocolog-nifty.com/k-daimon2.MP4

Kdanjo なお金剛峰寺とは本来高野山の一山の総称で、創建当初は堂塔のたつ壇上伽藍を言ったが、明治2年(1869)以降に総本山となった(秀吉が母の菩提のために建てた)青巌寺をさすようになっている
http://id20.fm-p.jp/album/pub_view.php?uid=tsukigara&dir=39&pub_num=0&target=28&user=0

高野山は山上に築かれた宗教都市である
Kmachinami確かにそれはそのとおりだが、山上の稜線上に集落が広がっているわけではなく、山頂に近い山間の谷の中央部を道がはしり、その両側に家並みが、そしてその外側の山に沿ったところに寺院が建ち並んでいるといった風景である

Ksando都市構造の整理はまだこれからだが、奥の院への参道脇にならぶ巨大な五輪塔をみれば、この地が聖地であり霊場であることは圧倒的な迫力で迫ってくる


谷の坊をめぐること、そして尾北窯の四耳壺らしい製品をみることが次の課題

中世の名所リストに善光寺と高野山が並んでいることは既に書いたが
Kkaruka 空海の入定伝説と生身の善光寺信仰、善光寺と同じ刈萱堂、北条氏とのつながり、高野聖と善光寺聖、一遍の選択
鎌倉時代の善光寺を解く鍵は高野山にもあるのではないだろうか
前期古墳の木棺に多く使われている高野槙の小枝を無人の販売所で200円で買った
独特の香りが印象に残った
Kkoyamaki

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2006年4月29日 (土)

続・トピックス-六波羅政庁址-

京都が日本の文化と歴史の中心だと言うことは、遺跡学から見たら全然抽象的なことではなく、非常に具体的で臨場感あふれていることである
言われてみれば当たり前のことかもしれないが、地面を掘り下げる度に、そこで生きた人々の生活の痕跡が次々と姿を現してくる
京都国立博物館の周辺もその典型である
平安時代後期は法住寺殿、鎌倉時代は六波羅政庁、そして桃山時代以降はあの鴨川の改修にも関係する方広寺があった
これを歴史のかたまりと言わずしてなんとしよう

平成10年度の京都市埋蔵文化財調査概要によれば
京都国立博物館の新館建て替え工事にともなう調査で、方広寺の南門跡の根固めを10箇所、回廊の南側の溝と石垣および鋳造遺構がみつかている。
鋳造遺構は東大寺戒檀院の梵鐘鋳造遺構の部材に似た部材が残っており、最下層が防湿のための木炭層で、その上に平瓦を敷いて、さらにその上に井桁状に組まれて置かれている。調査者が書いているように、鋳型を支える定盤の痕跡だろう。
こういった遺構の通例により、スラグは大量にみつかるものの、鋳型や形のわかる溶解炉はみつからないため、製品の特定はできないが、方広寺といえば誰でもあの有名な鐘を思い浮かべるので、その関連を考えるだけでも楽しくなる。
ちなみに、溶解炉も鋳型も再利用するため、みつからないのが普通である。

中世から古代末では石敷きと路面と池状遺構と東播系の埋甕がみつかっている。これらの遺構のうちのいずれかが六波羅政庁跡に関係することになる
鎌倉時代後半の埋甕といえば、京都駅前の調査で3つ並んだ墓が有名だがこの場合はどうなるだろうか
また遺物には9世紀後半から10世紀の土師器皿があるため、法住寺に先立つ平安時代前期からこの鴨東の地が開発されていたことがわかる
以前にも書いたが、左京の繁栄はそのさらに外縁にあった複数の拠点の繁栄を原動力としていると考えているが、そのひとつの証しになるかもしれない
それから備前窯系と言われている須恵器碗が出土している
時期は13世紀になる
もちろん京都市内ではめずらしいが、実は鎌倉で見つかることが知られている
この六波羅政庁跡でそれが見つかっていることが非常に面白い

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2006年4月28日 (金)

トピックス-京都の方形竪穴建築址と六波羅政庁址-

歴史資料館の書庫で鳥羽をさまよっていたらまた面白いコンテンツに出会ったので再び寄り道

1、京都の方形竪穴建築址
(『京都市内遺跡試掘調査概報』平成13年度、京都市埋蔵文化財調査センター)
 場所は烏丸通と三条通の交差点の北西を少し北へいったところで、調査されたトレンチは烏丸通に面した東西に長い敷地。
 この場所は平安京の条坊では左京三条三坊十二町にあたり、平安時代中期には藤原頼通の妻の祇子の邸宅が、末期には藤原基隆の邸宅があり、その後白河法皇へ献上されると、鳥羽天皇や鳥羽天皇の中宮待賢門院が御所御所(三条西殿:平安博物館の調査報告がある)として利用した。ちなみに烏丸通を渡った東には白河法皇の三条東殿があり(新風館の壁に説明板がある)、あたかも院の権力の中枢の様な場所だったと言える。

 みつかったのは土坑20・23・26。
 土坑20は、南北2.8mで深さ70㎝ほどに掘りくぼめられた四角い穴。西壁に沿って幅30㎝ほどの溝が掘られ、その中に50~65㎝の間隔で、礎石を入れた5つの柱穴が設けられている。また床面は固く締まり、その上に薄い炭層があったという。土坑の中からは13世紀後半から14世紀初頭の土師器皿と青磁碗がみつかっている。
 土坑23は、南北2.3m、東西1.7m以上で深さはやはり70㎝である。壁際に幅40㎝ほどの溝がめぐり、その中から60㎝間隔で礎石を伴った柱穴が見つかっている。出土した遺物は、11世紀の土師器皿・灰釉陶器碗など。
 土坑26も同様な遺構と考えられており、他の出土遺物とあわせて室町時代の地下式土坑とされている。
(図面に掲示されている資料は13世紀後半または14世紀初めくらいと思うが)

 こういった遺構は、業界用語で言うと、鎌倉で多くみられる方形竪穴建築址と呼ばれるものに似ている。ひらたく言うと、地面を掘りくぼめて、その低くなったところ(半地下状)に基礎をおいて建物をつくりあげているものである。古墳時代や弥生時代などの竪穴住居跡をイメージしてもらっても良いが、規模はずっと小さい。
 
 1986年に『長野県考古学会誌』に中世集落遺跡のことを書いたとき、東日本では古代はもちろん中世においてもそれなりに知られている遺構だが(戦国時代の城館跡からもみつかっている)、関西では高槻でそれらしいものが鎌倉時代にあると言われているだけの非常に稀な遺構であるとして、東西日本の違いと、14世紀代を過渡期とする時代区分論に話題を提供した記憶がある。
 その後、京都駅の伊勢丹の地下の鎌倉時代後半の鋳物師の家の裏庭から、2本柱で浅く掘りくぼめた四角い遺構と掘りくぼめた壁際に柱穴のならんだ遺構がみつかり、方形竪穴状の工房跡と言われている。
 鋤柄もその意見に賛成であり、烏丸三条の例とあわせれば、西日本でも鎌倉時代後半に
ある程度みられた遺構だった可能性がある。

 問題が2つある。
 ひとつめは、鎌倉の場合、こういった遺構の分布は前浜に多く、普通の建物が多い鶴岡八幡宮周辺との対比で都市の中心とその周縁の議論の材料になっているが、鎌倉時代後半の烏丸三条でこれが見つかったことの意味はどのように考えたらいいのかということ。
 ふたつめは、京都駅の伊勢丹の地下でみつかった方形竪穴は道から離れた場所にあったが、この方形竪穴は烏丸小路のすぐ近くにある。さらに3つ重なり合うようにつくられている。この意味はなんなのか。

2、六波羅政庁址
 

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2006年4月27日 (木)

鳥羽について考える-ちょっと寄り道-

出勤時、近鉄電車でハイキングの格好をした人たちと一緒になる。
聞くともなく話しを聞いていたら、見るともなく資料を見たら
どうやら洛東の古墳をめぐるグループらしい。
今日は午後から天気は良くなるらしいが、風はまだ冷たい
けれども歴史探索ツアーの企画がしっかりした意思で動いている
とくにどこの博物館の活動というわけでもないようだが
そんな普通の感覚で歴史と親しむ雰囲気のあるところが、このあたりの特徴であることをあらためて実感
こういった人たちへ貢献する方法がもっとあるはずと思いながら高の原で各停に乗り換える
何事も日々勉強

昨日は学際科目の「発動する京都」第2回目で京都大学の西山良平先生による
平安時代の生活環境
いつもどおりの軽妙な語り口ながら
普通の歴史では見えてこなかった平安時代の人々の様子が再現される
途中あまりにリアルでちょっとだけハラハラドキドキもしたが
それも歴史家のなせるわざなり
学びの喜びを感じる

さて鳥羽である
歴史資料館の書庫で報告書にのめりこむ
ところで本論からははずれるのだが
昨日から気になって調べはじめていることがある
鳥羽離宮があった時代、鴨川は現在の流路と異なり
鳥羽離宮より南を流れていたと言われる
鳥羽の発掘でもその痕跡とされるものが見つかっている
そして、それが現在の流路に変わったのが江戸時代初期とされている
ところがその間の経緯がわかっているようでよくわからない
1586年に秀吉によって建てられた方広寺に関わる話しや
角倉了以による高瀬川改修に関わる話しは出てくるのだが
どうもよくわからない
資料の読み方や調べ方が悪いのだろうか
本論ははずれるのだが気になって仕方がない
愉快愉快

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2006年4月26日 (水)

鳥羽について考える2

まずはじめに、鳥羽離宮と呼ばれる一帯の中で
どこが調査されたのかを知る必要がある
最近の法金剛院の報告書と1984年のカラー表紙の報告書に
その集成の一部が掲載されているが
ここはやはり一から見直そうとばかり
名神高速道路の建設にかかる調査にさかのぼって調査地点の集成をおこなった
(まだ途中)

次に入手しうる調査報告の初出から調査成果をながめはじめた
手にしたいもののイメージはまだ明確ではないが
目的は鎌倉時代の都市の風景の原型である
それを示す可能性のあるモニュメントや情報がなんであるかを決めつけることなく
まずはながめて自分の体を鳥羽と一体化させる

おそらくその手がかりのひとつは区画溝ではないだろうかと思い
その目で再び報告をながめ直す
思いついて、名神高速道路の工事にかかる報告書をとりだし
読み直す

昭和34年3月31日の京都府教育委員会発行による「名神高速道路路線地域内埋蔵文化財調査報告」である
この本は、京都府内における、名神高速道路路線地域内に予想された、埋蔵文化財の発掘調査および実地測量調査の概況報告、となっており
山科の芝町遺跡と大宅廃寺
伏見の深草廃寺とけんか山古墳と嘉祥寺跡、貞観寺跡、西飯食町遺跡そして鳥羽離宮跡が納められている
調査の代表は梅原末治と有光教一
現場の指導は森蘊と坪井清足および酒詰仲男(同志社大学)
大宅廃寺の調査担当が浅野清、木村捷三郎、小林行雄、杉山信三、鈴木嘉吉、工藤圭章、高橋猪之介、西谷真治、樋口隆康
調査補助員が岡田茂弘、小野山節、金関恕、佐原真、田中琢、田辺昭三、西川幸治
経費の総額は234万円
参加延べ人数は2400人だったという
いろいろな意味で、今思えば、卒倒するようなプロジェクトだった
ちなみにこのとき既に日本道路公団があった
蛇足であるが、鋤柄はこのとき産まれて7ヶ月だったことになる
また大宅廃寺から中世墳墓がみつかっている
豊富な陶磁器と特殊な構造をもっており、可能ならば見直してみたいものである
深草瓦町の瓦窯についても同様

鳥羽離宮跡は協議の結果、詳細な実測測量がおこなわれ、精巧な地形図がおさめられている
これが大きなショックだった
ある程度は予想していたのだが、それ以上に当時の地割りが現在の地図と一致しないのである
もちろん鴨川の旧河道を示す地割りや、それ以外にも複雑に入り組んだ地形を示す地割りがいたるところにあって、平安時代末期の風景を甦らせる情報はふんだんにありそうなのだが
さて、どうやって考えたら良いものやらと、近鉄電車の中で三山木まで思案にくれる
一番気になったのが、条里地割りがあまり鮮明でないこと
史料にあるような西大路や北大路が意味のある形で復原できるのだろうか

そこで縮尺はだいぶ異なるが
明治時代に作成された完成図を見てみようと急遽歴史資料館の書庫をたずねる
さて
陸地測量部によって作成された明治の地図は、仮製図と正式図のあることが知られているが、それぞれ使う目的によって有用な成果を得ることができる
今回は位置関係の正確さを求めて正式図を参照
するとここでも驚いたことがたくさん
1、京都駅の東でJR線を越えて東洞院を南下する大和街道沿いに「東寺道」「鳥羽街道」「勧進橋」「竹田」「ぼうばな」という駅を通って伏見の西端をさらに南下する「京都電気鉄道」の路線がある。この路線は市内電車につながっている。
2、現在の近鉄京都線の一部は元の国鉄奈良線で、京都を出ると次は「伏見」。現在の関係になるのは1921年に東海道線の東山にトンネルが出来て以後
3、京阪電車は当時からあるが、「丹波橋」は「桃山」で、その北は「墨染」「 」「稲荷」「稲荷新道」「鳥羽道」「東福寺」となっている
京都の地名もあらためて注意しないといけないようである

閑話休題
では肝心の明治時代の鳥羽はどうかというと

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2006年4月25日 (火)

鎮魂

あのとても悲しい事故から1年が経った
京田辺キャンパスではその追悼の会がおこなわれた
多くの学生と教職員が集まり、祈った
風は少し冷たかったが
あの日と同じように
空はあくまでも青く
5月をむかえる前のまばゆい光がキャンパスを覆っていた

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2006年4月24日 (月)

牛山佳幸さんの「中世武士社会と善光寺信仰」『鎌倉時代の社会と文化』東京堂 に学ぶ

信州大学教育学部の牛山さんの研究に学ぶべき事が多くあった
おさらいと今後の検討のために、これまでの資料とあわせた整理をおこなってみたい

・大同4年(809)火災
・弘仁5年(814)火災
・天延3年(975)火災
・11世紀中期以降に石清水八幡宮寺および園城寺の末寺となる。源平の争乱は以仁王が源頼政と共に園城寺の僧兵と一緒に蜂起が始まりだが、善光寺の背後にあった戸隠顕光寺は比叡山の末寺だった
・天仁元年(1108)火災
・永久2年(1114)善光寺別当の従者が京都の法勝寺境内と乱暴
・九条兼実の弟の前大僧正覚忠(1118~1177)が善光寺に参詣
・元永2年(1119)宇治の平等院が船を用意して鳥羽天皇の中宮の藤原璋子(待賢門院)をもてなし、鳥羽北殿から船で出て、神崎(尼崎)にあそんでいるが、この時、善光寺別当清圓も一緒だった
・治承3年(1179)火災
・文治3年(1187)7月28日、源頼朝は、信濃国目代(比企能員(ひきよしかず):頼朝の乳母比企禅尼の養子で娘若狭局が頼家の側室となり一幡を産む:守護も兼ねる)宛てに善光寺再築工事を徹底させる
・建久2年(1191)10月22日、落慶を兼ねた再建の曼荼羅供養がおこなわれる
・建久8年(1197)源頼朝が大勢の御家人を率いて善光寺に参詣
・正治元年(1199)浄土宗の刈萱上人が西光寺を開く
・建仁3年(1203)比企能員が北条時政によって謀殺される
・北条泰時の弟の朝時(ともとき)(名越(なごえ)氏の祖)が修造事業をおこなう(金堂は東西7間、南北11間か)
・承元4年(1210)までに下野の長沼宗政が善光寺地頭となっている
・建保3年(1215)源実時の時代、更級郡布施御厨?の布施右衛門尉が奉行となって、善光寺の僧徒に絹布などを給与する
・承久3年(1221)頃、典型的な「善光寺聖」と言われる伊豆走湯権現の浄蓮房源延は伊勢を本貫とする御家人加藤景員の子
・安貞元年(1227)閏3月、知行国主の前大納言藤原(滋野井)実宣(さねのぶ)が銭500貫文を払った人に信濃の国務を与えると公募し、藤原定家が銭300貫文で請け負う
・嘉禎元年(1235)頃、京都市中で善光寺如来に道俗が群参して礼拝する騒動(明月記)
・延応元年(1239)北条泰時は小県郡小泉荘室賀郷(上田市室賀)の水田6町6反を善光寺に施入
・仁治3年(1242)名越朝時が鎌倉に新善光寺を建立
・寛元4年(1248)3月14日、名越氏が主導した造営落慶供養がおこなわれる(朝時の遺言でその子の光時らが大檀越)
・建長2年(1250)の九条道家の処分帖によれば、水内郡千田荘(長野市芹田)が善光寺に寄付されている
・建長5年(1253)北条泰時・朝時らの弟の重時が檀那となって修造総仕上げの供養をおこなう
・文永4または5年(1267または68)火災
・弘長3年(1263)北条時頼は水内郡深田郷(長野市箱清水)を買得し、水田12町を寄付
・文永2年(1265)4人の在地の御家人からなる奉行人が廃止される。(水内郡窪寺郷の窪寺光阿、小県郡諏方部郷の諏方部四郎左衛門、高井郡狩田郷東城村の桓武平氏、和田石見入道仏阿、水内郡平林郷などの領主に関係する原宮内左衛門入道西蓮。)
・文永8年(1271)一遍が北陸から越後国府(現在の上越市)を経て善光寺に参詣
・建治3年(1277)執権時宗の連署をしていた北条義政が、突如鎌倉を出奔して善光寺に参詣、その後出家。
・弘安2年(1279)一遍が二度目の参詣をおこなう。勧進聖の法阿弥陀仏は、念阿と道空という二人の勧進説法者を連れて35年間の活動を経、佐久郡落合の新善光寺に阿弥陀仏を造像したという
・正応3年(1290)大納言久我雅忠の女二条が7ヶ月間善光寺に滞在?
・永仁6年(1298)一遍の後継者の他阿真教が善光寺に参詣
・正安2年(1300)一山一寧が金刺満貞(得宗被官でかつ諏方下宮祠官)から善光寺を経由して滋雲寺へ招かれる逸話
・応永34年(1427)火災

・「後庁」は鎌倉時代には武蔵国と豊後国にあったらしい。鎌倉初期に頼朝の知行国だったところで、武蔵守の北条氏は鎌倉に居住してた。現地にあった代官の役所が「後庁」ではないか。筑摩郡の国府から在庁官人が出張してきていたが、基本的には対善光寺政策のための機関ではないか
・善光寺信仰の普及が、北条氏一門のなかでは、とりわけ金沢氏の所領内もしくは関係の深い地域に顕著
・法然の弟子の証空が善光寺参詣をおこなう。証空の孫弟子が一遍
・善光寺の参道および周辺に残る寺院で頼朝伝承を伝えるのは、十念寺・中御所の観音寺・茂菅の静松寺

牛山佳幸1996「中世律宗の地域的展開-信濃国の場合-」『信濃』48-9
牛山佳幸1991「善光寺創建と善光寺信仰の発展」『善光寺 心とかたち』第一法規出版
牛山佳幸1997「『善光寺縁起』の成長」『古代・中世人の祈り-善光寺信仰と北信濃-』長野市立博物館

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2006年4月23日 (日)

今、東京大学が面白い

東京大学の大学院に、情報学環・学際情報学府というのがある
情報学環とは、教員が所属する研究組織で、学際情報学府とは、学生が所属する教育組織になっている
「全学にわたる情報関連の諸領域をネットワーク的に連携させる横型の組織として設置され、情報学分野の総合的な教育研究を先端的かつダイナミックに推進するにふさわしい形態として考えられ」
「文系理系の区別を越えた情報分野の学融合を目指してい」るという
http://www.iii.u-tokyo.ac.jp/
このうち学際情報学府 学際情報学専攻は
「文化・人間情報学コース」と「社会情報学コース」と「学際理数情報学コース」から構成され、情報学・社会および文化学そして数理情報学のそれぞれの専門家が教育と研究にあたっている
なお歴史系の情報学環は「社会情報学圏」の中の情報文化・歴史学域となっている

携帯の教育利用や歴史資料のデジタルアーカイブとその活用など
非常に近いものをおこなっている
今年度は東京へ行く機会も増えるので注目していきたい

マップをベースにした情報発信のサイトのふたつめがでました

・アシアルの「地図日記2」はGoogle Maps のAPIを利用したもの
http://chizunikki.com/
それ以前にあったのは
・ちず窓
http://chizumado.jp/
これは鋤柄がすでに関ヶ原を登録している

Google Maps のAPIを利用したものは上京歴史探訪館webでも公開予定である
楽しみ

橿原考古学研究所附属博物館で2006年4月22日(土)~6月18日(日) に「葛城氏の実像」
地域と遺跡に重点をおいた興味深い展示
http://www.kashikoken.jp/museum/special/06spring/main.html

鋤柄のゴールデンウィークの予定

・醍醐寺霊宝館
http://www.daigoji.or.jp/vihara/reiho/reiho.html
・京都国立博物館の大絵巻展
http://www.kyohaku.go.jp/jp/index_top.html
・奈良国立博物館の重源展
http://www.narahaku.go.jp/exhib/2006toku/chogen/chogen-1.htm
・奈良県立美術館

・京都市勧業館の古書展
http://www1.kcn.ne.jp/~kosho/koshoken/event.html
・高野山
http://www.koyasan.or.jp/

・市澤泰峰2006「応仁の乱についての考察」『地域と環境』6
・高橋昌明2005「日本史学者の見た元暦二年七月京都地震について」『月刊 地球』317
・牛山佳幸2004「出羽における善光寺信仰の展開」『山岳修験』34
・服部敬史2005「博物館二様論」『羽村市郷土博物館紀要』20
・服部敬史2006「中国東北地方における古代・中世の鉄鏃」『和光大学表現学部紀要』6
・牛山佳幸1999「中世武士社会と善光寺信仰」『鎌倉時代の社会と文化』東京堂出版

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2006年4月22日 (土)

鳥羽について考える1

鳥羽について考えている
福原の溝と鎌倉の溝について考えたとき、その原型として頭にあったのは鳥羽だった
市の湊とつながった陸の道と水の道をひかえたところに、一定の規格線に依った館が集合する
平泉もとても近い関係と言える

平安時代後期の京都には、それぞれ京の大路につながった3つの街区があった
12世紀初め、白河上皇は、高級貴族の邸宅が集中する二条通を東にいった先に、藤原良房の別業だった白河院を中心に、法勝寺や院御所の集中する白河街区を整備した
12世紀後半、鳥羽天皇と美福門院の愛娘だった八条院女御は、莫大な所領を譲られ、弟の近衛天皇が死ぬと女帝に推されるほどであったが、その御所とその時期のバブルストリートと呼ばれた七条町をむずぶ七条通を東へいった先には、その12世紀中頃に後白河上皇の御所であった法住寺殿を中心とした街区があった
そして朱雀大路を南へいった先には、白河上皇が築いた鳥羽殿があった

平安京の歴史を語るとき、その後半の時代、右京が衰退して左京が繁栄していったと一般に言われている。
しかし、右京の衰退の原因については、あまり深く考えられて事がない
最も多く言われているのは、桂川の氾濫原に近いという自然環境である
しかし山陰線の高架工事にともなう発掘調査で、右京の北部はけっして衰退していないことがわかっている
『池亭記』に描かれているのはあくまで慶滋保胤にとっての世界である
仁和寺の子院である花園の法金剛院は、待賢門院によって大治5年(1130)に(大治5)落慶。待賢門院の晩年の御所として多くの堂が建てられたという。
もちろんその西の先には嵯峨天皇の離宮だった嵯峨院(後の大覚寺)があり、鎌倉時代も後嵯峨院・亀山院・後宇多院とつづく御所があった

ひとくちに右京の衰退と呼ばれるものは、単に自然環境によってのみおこったものではないと思っている
中国の『周礼』にもとづいた理想の形として築かれた平安京は、しかし実際の生活が始まると、都城に住んだ人々によって実質的に住みやすいものに変化する
その結果が平安時代後期の姿であったのだ
それではその原動力はなにか
歴史のさまざまな状況を独立変数で考えていけないのは自明であるが
先の風景を頭に思い浮かべると、どうしても「鴨川」の存在が大きく思えてしまう

古代律令社会の骨格は五畿七道とよばれる地域区分とそれらをつらぬく官道にあった
あまりに単純な話しかもしれない、それを大きく変えたのが藤原純友と平将門で、決定づけたのが平清盛だと思っている
はじまりはちょうど10世紀の中頃頃だったことになる
平安時代中頃にはじまる平安京の変貌は
水上交通を軸とした拠点集落の形成と連動したものだったのではないかと考えている
すでに書いているが、その典型である
北条の整備する以前の鎌倉と福原の風景は規模も形もとてもよく似ている
してその規模がちょうど鳥羽にもあっている
ゆえ
それを検証するためには鳥羽をしっかり見ないといけないので
学史にさかのぼって鳥羽の資料を見直している
京都市考古資料館の資料閲覧コーナーでひっそりと
ちょうどジョージスマイリーがビルの痕跡を資料の綴りの中から探し出しているように

奈良国立博物館で「重源」の特別展がおこなわれる
「一遍」とならんでプロデュース学概論のテーマにしている
これは見に行かなければ

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2006年4月19日 (水)

発動する京都2006

本日は学際科目の「発動する京都」の平安時代第1回目
講師はゲストで神戸大学の高橋昌明先生
1185年に京都白川を中心にマグニチュード7を超える地震がおこったという
その時、院政期の文化を象徴した法勝寺の九重塔から瓦が崩れ落ち、得長院が倒壊したという
ドキュメンタリータッチでその時の地震についての記事たどり
記録を残した人物や、記された内容の整合性を確かめながら
源平の争乱で荒れた京都とそこに生きた人々の姿を甦らせる

あらためて思ったのは、京都に対する源平の争乱の影響の大きさ
『方丈記』によれば、各地からの産物が入ってこないため、京都の人々の暮らしはいたく貧窮したという
どれほどの状態だったのだろうかと思いながら
そう言えば、修論で京都でみつかる中世の陶磁器の定量分析をした時に
15世紀代に著しい落ち込みのあることを明らかにし
その背景がわからないまま今日まで来ていたことに気がついた
先年から歴博の小島さんが注目してくれているが
それでは12世紀の陶磁器の定量分析はどうなるか
考えてみたい

それから二条通の東への延長を中心とした六勝寺街区の東に
最も広大な敷地をもった法勝寺は、その二条通をふさぐ形であったという
二条通を東へ突き当たったところが法勝寺らしい
この風景は、平安京においてはとても不思議である

ところで12世紀から13世紀代といえば善光寺にとっても重要な転換期
例によって思いを巡らせていて、そういえば中世瑞巌寺の成立にも北条がかかわっており
時期もプロセスも似ているように思った
石窟と板碑の立ち並ぶ瑞巌寺の風景は、善光寺の裏山にあったという数千基の石塔とオーバーラップするだろうか
納骨と聖で共通する善光寺と高野山は瑞巌寺とオーバーラップするだろうか
5月の長野では石塔も見ないといけないことになった

★気になるニュース
防災科学技術研究所:五重塔1/5型振動台公開実験とシンポジウム
 http://www.bosai.go.jp/jpn/koho/event/gojyus.htm
②阿武山古墳(高槻市)の近くから7世紀中ごろの八角形墳が見つかる(茨木市)
 八角墳については明日香村のサイトが参考に
 http://www.asukamura.jp/discovery_asuka/hakkutsu-tyosa-kai/p2.html

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2006年4月18日 (火)

唐古・鍵考古学ミュージアム2006年度春季企画展

阪急HDと阪神と村上FDのニュースが飛び込んできた
梅田はどうなるんだ
えらいこっちゃ
えらいこっちゃ

奈良盆地の中央に位置する唐古・鍵考古学ミュージアムで
平成18年度春季企画展「太子道の巷を掘る-保津・宮古の遺跡と文化財」が開催されている
2006年4月15日~5月21日である
もちろん日本を代表する弥生時代の大集落である唐古・鍵遺跡である
近鉄電車の橿原線を西大寺から南へ約20分
田原本の駅から北東へ歩いて約20分、国道24号線沿いを北上すると右手に広い駐車場と池と高楼が目に入ってくる
ミュージアムはその南で駅にはちょっと近い

筋違道とも呼ばれる太子道は、近鉄田原本駅の西を八木のすこし北から斑鳩へむけて、真北から西へ約22度傾いてのびる地割のことで、岡本宮と考えられる法起寺下層の建物群や若草伽藍と軸があい、関連はともかく『聖徳太子伝私記』には「須知迦部道」というフレーズがみえることなどから、斑鳩と飛鳥をむすんで聖徳太子が利用した道と伝わり、名前が今に生きているものです
整然とした条里地割が特徴の畿内平野においてきわめて稀な地割で
当然深い歴史の意味が考えられることになります

今回の展示はこの太子道に交差する東西の道(保津・阪手道)との交差点周辺を中心にしたもので
古墳時代は石上神宮の鉄盾に類似した木製盾がみつかり、飛鳥・奈良時代は官衙的な建物がみつかり、中世では常楽寺関係の遺構や「唐古南氏」や「金剛寺氏」の本拠の可能性がある館跡がみつかり、「道」との関わりの中で、長い時代を通じてこの場所が奈良盆地の中でも重要な役割を果たしていたことが想像されます

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2006年4月17日 (月)

砥部焼と鹿背山焼

愛媛県立歴史文化博物館で
4月22日から6月11日まで
平成18年度テーマ展の「近代えひめのやきもの 印判手のわん・さら・はち」が開催されます
平凡社の『やきもの事典』によれば、印判手とは、同じ模様の器を量産するための染付技法で、美濃で始められたといわれる型絵や、18世紀に伊万里で盛んにおこなわれたコンニャク印判が有名。明治には銅版転写が開発されたと言います

愛媛のやきものは砥部町の砥部焼が有名ですが、愛南町の御荘焼や宇和島の三間焼、伊予市の三島焼、八幡浜市の宮内焼、東温市の則之内焼など、各地に生産地のあったことがわかってきたそうです
鎌倉・室町時代のやきものは、東海地域に代表されるような特定の場所で焼かれていましたが、江戸時代以降は全国各地に窯場がひろがり、多彩で身近な焼き物文化が花を開くことになります
大量生産を促進した印判手の技法は、一方で文様によっては判の製作に手間がかかりあまり効率的ではなかったとも言われていますが、現代に続くやきもの文化をつくりあげた原動力のひとつだったことに違いはありません

そう言えば、この南山城にも近世から近代にかけてつくられた銅版転写の有名なやきものがありました
京都府相楽郡木津町鹿背山で焼かれていた磁器です
領主の一条家(兼香)は鹿背山に産業を興すことが好きだったようで、例えば享保2年(1717)に薩摩から琉球芋が献上されたことから、鹿背山の庄屋の利兵衛に命じ、薩摩の農民を上京させ収穫に成功したといい、薩摩から来たので薩摩芋と呼び利兵衛は「芋の利兵衛」と呼ばれるようになったと伝えています。
そしてやはり一条家により、森本助左衛門が奈良から陶工を雇って文政10年(1827)に始められ、明治まで染付を中心に焼かれたことが知られています
鹿背山では同じ頃、鹿背山瓦と呼ばれた評判の瓦も焼かれていたようですから、良質の粘土が採れたのでしょう
そう言えば木津町には、上梅谷の梅谷瓦窯・背後谷瓦窯、市坂の市坂瓦窯など平城宮へ瓦を供給していた窯が多くあり、なかでも上人ケ平遺跡は大規模な官営瓦工房跡で古墳時代の埴輪を焼いた窯も見つかっています。

埴輪窯と言えば、西大寺でも菅原東遺跡という埴輪窯がみつかっています。
その菅原の地ですが、菅原は土師氏の後裔氏族で、その子孫があの道真
それはともかく菅原の埴輪窯は、それゆえ土師氏の関係かと考えていたのですが
(河内の土師の里の土器つくりや、淀川右岸の高野新笠の里につながる高槻の新池の埴輪窯など)
ものが存在するためには、人(技術)と原料の両方の関わり方を考える事例の身近な典型になりそうな

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2006年4月16日 (日)

中世前期の町場と都市について

高橋修2004「中世前期の「町場」と在地領主の館」『地方史研究』311
紀伊国湯浅氏の石崎館とその周辺というサブタイトルがついたこのレポートは、いわゆる中世後半の町並みをともなうような都市的な場の普遍的な存在を認めがたいこの時期において、むしろ湊や河岸や街道筋といった交通や流通の結節点に、疎槐村的な街村が形成されている景観があっているのではという保立道久さんの意見を前提にすすめられているもので、在地領主層によるその公的な権力の承認を受けるための環境として、町場の開発と宿の機能の成立と維持があったとする具体例として湯浅の町が紹介されている
熊野街道沿いの港湾都市である湯浅町は、字図によって町の東西に異なる軸線をもっていたことが知られるが、湯浅氏の館とおもわれる字岩崎はそのちょうど境界線にあって、地形と道と字と現存する寺院の創建年代と明恵や定家などの記録により、湯浅の町場が12世紀半ばに新たな地形環境のもとで開発された都市的な場としている
山田川と広川にはさまれてできたこの町の旧地形と原景観がどのようなものであったか、砂碓の形成過程をめぐって去年四国の友人達と彷徨った宇多津の風景を思い出した
それから益田の河口部についての伝説も

小野一之1999「国府をめざす他阿真教」『一遍聖絵を読み解く』吉川弘文館
一遍の後継者としての他阿真教による国府の神社への接し方は微妙に変化しているという視点で、中世都市・国府と総社へのアプローチに注目している
コンテンツは越前国府と武蔵国府

中世前半の国府は、律令時代の地域拠点の衰微した姿ではなく、有力な在地領主層が在庁官人として政務を執る国衙(留守所)と彼らの精神的なシンボルである総社を中心にさまざまな施設が展開した(官衙・市・津・宿)中世都市だったという
また、その国府の町が南北朝期を境に「府中」の名称にかわり商業都市としての様相を深めていくとも

善光寺とその門前を彷彿させるイメージである

淡河氏の関係で多阿真教が重視したとされる越前の国府は現在の武生で市街地に総社が現存する。やがて九頭竜川と合流して日本海に注ぐ日野川が東をはしり、もちろん北陸道がその中を通過する。
南に「上市」の地名があり、川野浦を国府外港とし、26の諸宗派の寺院があり、北には中世の大規模集落遺跡で礫槨墓から白磁四耳壺と烏帽子を出土した家久遺跡があり、その周辺に在地領主層の名がみえるとも
北陸における真教のエピソードで有名なものに平泉寺との争いがある
その背景は、一義的には信仰上の問題に思われているが、真教が国衙権力で、平泉寺が叡山を経由した中央の権門権力であり、また平泉寺と牛原荘地頭淡河氏の対立もからむという

武蔵国府は現在の東京都府中市である
市街地の中心部にある武蔵総社の大国魂神社の東側一帯から、古代の武蔵国庁と考えられている溝で囲まれた大型建物群が調査されているそうである
南北に鎌倉街道がはしり、多摩川沿いには寺院を中心とする聖地・墓地が想定されている

真教が国府をめざしたのは、政治都市・国府における在地領主や在庁官人を軸とした布教が目的だったとしている

大橋俊雄1978『一遍と時宗教団』教育社
西川幸治2005『近江から望みを展く』サンライズ出版
川崎保2006『縄文「ムラ」の考古学』雄山閣
砂川博2002『一遍聖絵の総合的研究』岩田書院
浜中邦弘2005「宇治市街遺跡の調査-渡来人の足跡-」『月刊文化財』506
石井正敏1998「入宋僧奝然のこと」『古文書研究』47
宮川禎一2005「描かれた古墳出土品」『学叢』27
小野正敏2006「戦国期の都市消費を支えた陶器生産地の対応」『国立歴史民俗博物館研究報告』127
研究代表者 小野正敏2006『前近代の東アジア海域における唐物と南蛮物の交易とその意義』平成14年度~平成17年度科学研究費補助金研究成果報告書

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2006年4月15日 (土)

一遍と中世前期の日本列島と網野善彦

春学期の順番でいけば鳥羽を先に見直さないといけないのだが、この数日一遍に取り憑かれてしまい、似合わないのに車中で本を読んでいる

網野善彦の著作の中で一遍をとりあげたものに『日本中世に何が起きたか-都市と宗教と「資本主義」-』(日本エディタースクール出版部1997)がある
一遍聖絵を軸にして、氏の最も注目していた中世の非農業民の世界を描いたものである
網野善彦によって励起され、日本歴史の中に定着した中世都市ではあるが、その前期的世界については、かならずしも大方の認識が共通となっているわけではない
その証しのひとつが、『中世都市研究』にとりあげられているさまざまな場の中に、中世の前期的世界が少ないことであることは、すでに書いた
しかしこの本を読むと(もちろん、「一遍聖絵」という強い主張をもった史料に導かれながら)、網野善彦が叫ばすにはいられなかった中世前半の都市や都市的な場のイメージを感じることができる

多くの人が『一遍聖絵』と出会うのは、中学か高校の日本史の教科書かその副読本に載っている「備前福岡の市」の場面であろう
しかしもちろん、あれは、豊富な歴史情報に満ちた『一遍聖絵』のほんの一部にすぎない
付け加えれば、信濃国伴野の市庭との対比による13世紀後半の市の姿(不定期市と定期市の関係)
という説明が業界の標準的なものになる
しかしもちろんそれだけでもなく、五味文彦さんが描き、鋤柄がそれを補足した「市と館」という世界もそこにある
しかしもちろんそれも『一遍聖絵』という膨大な歴史情報に、こめられた史料の一部の解釈にすぎない
網野善彦の『日本中世に何が起きたか-都市と宗教と「資本主義」-』は、それを大いなる勇気をもって読み解き、なによりも重要なことは、日本歴史においてそれが示すことの大きさを、これからそれを学ぶ者に示そうとしたものであるということだと思う

鋤柄の履歴をひもとけば
1994 「大坂城下町にみる都市の中心と周縁」『都市空間』新人物往来社が
鎌倉で開かれた中世都市研究会の名称を戴いたその後の「中世都市研究会」の第1回の記録集である
一方『日本中世に何が起きたか-都市と宗教と「資本主義」-』の初出一覧によれば、「一遍聖絵」は1994年になっている
あの時の「中世都市研究会」で、鋤柄に『一遍聖絵』の世界を描くことへの挑戦が出来きていたらと思う
当然ではあるが、その頃の自らの未熟さを痛感する
網野先生が逝って2年経った
石井先生が逝って4年半経った
どうしようもない寂寥感と焦燥感におそわれているだけではいけない

中世前期の歴史の場として取り上げられるところが少ないのは事実
しかしそれはあくまで取り上げる人間の問題
中世前半の日本列島の人々のことは
こんなに詳しく『一遍聖絵』に描かれているじゃないか
それはどこで、何がどのように描かれているのか
網野先生や石井先生から教わったことはなんなのか

大宰府・肥前清水(寺院)・善光寺・伊予菅生(寺院)・伊予桜井・摂津天王寺・紀伊高野山・紀伊熊野(1274)・京・筑前・薩摩大隅正八幡宮(1276)・安芸厳島(1278)・備前藤井・備前福岡市・京因幡堂・信濃善光寺・信濃伴野市・(市屋・四条辻)・信濃小田切・(近江守山閻魔堂・摂津小野寺)・信濃佐久・下野小野寺・白河関の明神(1280)・奥州江刺・松島・平泉・常陸・鎌倉中里・片瀬・伊豆一宮三島(1282)・武蔵鰺坂・尾張甚目寺・萱津・関寺・四条京極・因幡堂・三条悲田院・蓮光院・雲居寺・六波羅蜜寺・市屋・桂・桑駅・穴生・久美浜・伯耆大坂・美作一宮中山神社(1285)・天王寺・摂津一宮住吉(1286)・叡福寺・当麻・石清水八幡宮(1286)・天王寺・尼崎・兵庫・書写山・播磨松原の八幡宮(1287)・備中軽部・備後一宮吉備津神社(1287)・安芸厳島神社(1287)・伊予一宮大山祇神社(1288)・伊予菅生・讃岐善通寺・淡路二宮大和国魂神社(1289)・淡路志筑の北野神社(1289)・兵庫
今年の夏にまわるには多すぎるかな

先週森先生と話しをしていて思い出した
鋤柄が学部3年後期の時の森ゼミは播磨国風土記を題材にした授業だった
森先生は周知の様に考古学が専門だが
すでにそれ以前からではあるが
考古学と文献をあわせた古代学という総合学としての歴史学を提唱し実践していた
だからその授業はそういった森先生の生きた研究そのものと言える
学生は、森先生から播磨国風土記と兵庫県の遺跡の説明を受けた後
各自で興味のあるコンテンツについて調べた
鋤柄は兵庫県の地図を用意し、播磨国風土記に載っている地名を全て書き出し
それを地図に記し、同時に遺跡分布図をそれに重ねた
1980年初頭である
半畳くらいの兵庫県の地図に、「播磨国風土記」の位置のわかっているエピソードと遺跡分布図の重ねたものをつくって、府庁近くの印刷屋さんで縮小してゼミ発表資料をつくった記憶がある
過日、部屋の整理をしていたらその資料がでてきた
今なら作業自体はデジタルマップとパソコンでできるが、位置情報の付いた遺跡と史料のデータベースとしては、現在でも誰もやっていない大きな仕事である
やはり学生時代のバイタリティとはすごいものだと思う

ということで
鋤柄のゼミでは
古代史に興味のある人は『播磨国風土記』をベースに
中世史に興味のある人は『一遍聖絵』をベースに
勉強することになる
と思う
もちろん『洛中洛外図』でも良いし『東関紀行』でも『沙石集』でも

一遍に倣えば
「はねばはねよ、をどらばをどれはるこまの、のりのみちをばしる人ぞしる」
そして
「身をすつる、すつる心をすてつれば、おもひなき世にすみぞめの袖」

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2006年4月11日 (火)

一遍と信濃

2002年の5月に「市と館-館の成立とその背景-」という論文を『長野県考古学会誌』99・100 に書いた。
問題にしたかったのはサブタイトルの通りだが、その中でとりあげた重要なエピソードに一遍の訪れた信濃伴野市庭と館の風景がある
現在の佐久市である
既に東京大学の五味先生や千葉大学の玉井先生が中世の館を説明する好例として紹介しているものであるが
鋤柄はそれをもとにして、現地を歩いてまたほかの先行研究と合わせて館とその周辺の風景を復原した
その際疑問に思ったまま残していたのが、なぜ一遍は伴野の市庭を訪れたのかである

今年度からはじまったプロジェクト科目の姉妹講座のようなものとして、学際科目でプロデュース学概論というものが設けられた
そのなかで2回の講義を受け持つ予定であるが
現在そのテーマを中世・近世の風景にみるプロデュースにしており
具体的なエピソードを「重源」「一遍」そして可能ならば「後藤祐乗」や「角倉了以」もやってみたいと考えている
一遍智真は法然・親鸞に続いて現世の救済に活躍した鎌倉時代の偉大な宗教家であり
かつ本人が意図したかどうかはともかく、今で言うすぐれたプロデューサであったと思う
彼は、極楽往生を「保証」する「念仏札」を全国を「遊行」して「賦算」という方法で「授与」し、人々はその喜びを「踊り念仏」で表現したという

今回の授業ではその一遍の遊行のあとをしっかりたどってみようと思っているのだが
(一遍を知ることは京都ももちろんで広い意味でさまざまな鎌倉時代を知ることにもつながるので)
その過程で一遍と信濃に深い関係があることを今更ながら知った
善光寺のところでも触れていたがあまり気に留めることなく見過ごしていた
一遍と善光寺聖の関係も調べないといけないと思いつつ
見ていても取り込んでいないということはこういったことである

一遍は、10歳ほどで出家をするが、父の死により普通の生活にもどる。しかし32歳で再び出家しそれから本格的な修行をはじめる。その初期に訪れたのが「水鏡」に「生身の善光寺の阿弥陀仏の三尊」と言われた信濃の善光寺なのである。その後伊予の窪寺や岩屋、大坂の四天王寺および高野山などで修行し、ついに紀伊の熊野本宮で、念仏札の神勅を受けることになる。一遍と称したのはこの時からと言われ、その後の遊行のなかで信濃国で踊り念仏を始めたというのである。

本格的な修行の開始と「踊り念仏」の始まりという一遍にとって最も重要なエピソードに信濃が舞台として登場するのである
「生身の善光寺の阿弥陀仏の三尊」として有名な善光寺が、現世の救済を積極的にプロモートする一遍の行動に大きな影響を与えたことは合理的に説明できる要素であろう
これはこれで鎌倉時代の善光寺を考えるときにもっと注目したいテーマである
ただし一遍と信濃の関係はそれだけではなかったような

一遍の祖父は河野通信と呼ばれる人物で、河野氏は有名な伊予の水軍であった
その通信は承久の変に際して後鳥羽上皇方についたため、乱が終息した後、厳しい処置を受けることになる
通信は岩手の江刺に流され、一遍の伯父の通政は現在の長野県伊那市で斬首
そしておなじく一遍の伯父の通末は信濃国伴野荘に流されるのである

一遍が2度目の善光寺参詣と共に佐久の伴野の市庭を訪れたのは、最初に善光寺に参詣した文永8年(1271)から8年後の弘安2年(1279)のことで、彼はそこで歳末の別時の念仏をおこない、続いて小田切の里の或武士の館に呼ばれていき、踊り念仏が始められるのである。
現在、佐久市の跡部では国の重要無形文化財に指定されている「跡部踊り念仏」がおこなわれているという
信濃の歴史にくわしい人々の間では通有なものとされている一遍と信濃の関係
歴史はどこでどうつながっているかわからないところが面白い

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2006年4月 8日 (土)

おまたせしました

みなさんお待たせしました
Kamigyotop 上京歴史探訪館webのリニューアルが、トップページついて暫定公開されました。
青山さんのステキなデザインがとても印象的です
http://kamigyo.doshisha.ac.jp/html/index.html

各ページの更新はまだこれからですがどうかご容赦のほど

学生スタッフのみんなで手分けして集めて編集した上京区内のさまざまな文化遺産を
googlemapで探して見ることができるページもはじまります
新しいコラムもだんだん始めようと思っています
もちろん個々のコンテンツの充実もはかっていきます

これからも学生スタッフのみんなと相談しながらすすめていきたいと思っています
よろしくお願いします

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2006年4月 7日 (金)

始まり、はじまりいい

このところ4月からの授業準備でいろいろな本を読んだり、前に読んだ本をもう一回読み返したりしている。
同じ本から以前と違った情報を得られたり、かつては立派な本だと思っていたのが、(あくまで見方によってはではあるが)そうでなかったりすることがあって、とても面白い。
大学とはそんな新しい発見や見方をどんどん生み出して伝えるところである。
Seikaそんなコンテンツのひとつとして昨年度のプロジェクトからふたつの成果品が結実した
めでたい
上京区の歴史探訪マップと上京の知恵と文化という冊子である
共に学生くんたちの格闘の作品である
なんでもそうだと思うが、やっている最中はしんどいことだらけかもしれないが、できあがってくるものを見ると、そんな苦労の日々も吹っ飛ぶもの
参加したみなさん
とてもステキな仕事、ご苦労様でした
さて次はなにができるだろうか

今日はすっかり良い天気
Goshosakura 秋学期にはじまるプロジェクト科目出雲路先生クラスのプレイベントで
京都御所の一般公開の見学をおこなう



Konoesakura去年同様の近世近衛邸の垂れ桜が満開である
出雲路先生の軽快な説明を聞きながら

ここでもまた新しい発見と見方をおぼえる

http://scoophand.cocolog-nifty.com/gishumon02.mp4
http://scoophand.cocolog-nifty.com/sisinden02.mp4

上京区役所へ行って
寒梅館へ行って
教務課へ行って
情報メディアへ行って
キャンパス京都プラザへ行って
さあ今年度も始まり、はじまりいい

Koriyamasakura 郡山の桜も満開

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2006年4月 5日 (水)

善光寺について考える5

問題をいくつか残した
平安時代後期までの善光寺とそれ以降の善光寺の変貌のわけ
そして今回見つかった溝が示す13世紀後半の善光寺門前の風景についてである

善光寺の変貌は、平安時代末期に園城寺末になった時から始まる
園城寺(三井寺)は天台寺門宗の総本山で大津市園城寺町に所在する。山門延暦寺に対し寺門と称す。
7世紀末に大友村主氏の氏寺として創建され、貞観元年(859)に円珍に付属されて再興。
正暦4年(993)に円仁門徒と対立して比叡山から下山した円珍門徒が最大拠点として山門と対抗。
長暦3年(1039)に寺門の明尊の天台座主補任をめぐって山門の焼打ちにあうなど、平安時代末期から鎌倉時代を通じて天台座主補任や園城寺戒壇の別立にかかわり山門と争った。
北陸を代表する白山平泉寺は応徳元年(1084)に比叡山延暦寺の末になっているので、あるいは善光寺もこの天台系宗教組織の大きなうねりの中に巻き込まれたのであろうか

ただし善光寺の場合は、浄土教の庶民化と浸透による重源や親鸞、一遍をはじめとする高僧の参詣や滞在と念仏信仰の一大中心地としての位置づけも重要な特徴であり、鎌倉時代以降の発展はむしろこの面に注目して考えた方が良いのかもしれない
しかしこの分野についての鋤柄の知識はあまりに脆弱であり、現在これ以上のコメントは加えられない

ただし、源頼朝の強い支援を促した原動力については、良く言われているように、その大きなポイントが善光寺聖と呼ばれる勧進聖の存在にあったという考えに賛成である
もちろん善光寺の再興を通じて信濃の武士をまとめようとした頼朝の意図があったことも考えられようが、網野善彦が注目した平安時代末期から中世前期における、神人・供御人・寄人と同じ役割を善光寺聖も果たしたのではないかと考えている
『国立歴史民俗博物館研究報告』92集でまとめたように
石清水八幡宮の神人は瀬戸内を中心とした西日本の流通をおさえ
日吉と白山の神人は北東日本海を中心とした東日本の流通をおさえた
井原今朝男さんによれば、弘安2年(1279)に、勧進聖の法阿弥陀仏は、念阿と道空という二人の勧進説法者を連れて35年間の活動を経、佐久郡落合の新善光寺に阿弥陀仏を造像したという
善光寺聖は、石清水神人や日吉神人たちと同様に、あるいは河内鋳物師のような供御人と同様に、世俗的な境界を越えて各地をめぐり、有形無形のさまざまな情報の媒介者として政治的に経済的に中世の東国をかたちづくる役割を果たしていたのではないだろうか
そして善光寺は、そんな彼らの依拠する場として拡大・発展していったのではないだろうか
善光寺聖についての詳しい研究を調べたい

問題はそんな善光寺聖と北条氏との関係である
周知のように北条氏は、水上交通の要衝をおさえることで鎌倉幕府の発展に大きく寄与した
日本列島のほぼ全域にわたる沿岸流通を掌握したのが北条氏ではないかと思う
それでは鎌倉時代の内陸交通についてはどうだったのだろうか
あくまで想像ではあるが、善光寺と北条鎌倉との関係は、さきの善光寺聖のはたらきと北条鎌倉の関係によるものではないかと考えている
『沙石集』には、納骨供養のために、鎌倉から娘の遺骨を善光寺に送ろうとした父母の話があり、これは遺骨を運ぶ聖の存在をうかがわせるとも考えられている

そんなふうにしてあらためて善光寺門前の風景を思い浮かべ
そこに13世紀代のモニュメントを並べてみると
現在の本堂より南に下りた場所に本堂があって、その南にまっすぐのびる道があり、その道の脇には館がならんでいる。
その風景は八幡川でいったんとぎれるが、その付近には時宗僧の養阿が経営する療病院があり、川を渡った先には正治元年(1199) に浄土宗の刈萱上人が開いたとされる西光寺がある
そしてその先が犀川である
現在の中央通は(もし後世の改変が無ければ)善光寺の北裏からはじまり、善光寺で切られながらまっすぐ南へのびて丹波島の橋を渡り青木島のあたりまで続いているようにみえる
古代にさかのぼる条里線なのだろか
鎌倉時代のモニュメントは、この善光寺を起点とするこの南北線を軸に配置され、さらに八幡川を境に南北の領域に分けられるようにも見える
あくまで印象にすぎないが
善光寺門前が北条鎌倉の空間とダブってみえてしかたがないのだが
もしそうであるならば、誰がなんのために

しかしこれ以上の探索は京都にいてはできない
実際に現地を歩いて、資料を見て、話しを聞いて
わかることとわからないことを明らかにするために5月19日に
小学校3年から高校卒業まで過ごした街を再び訪れようと思う

古川貞雄・福島正樹・井原今朝男・青木歳幸・小平千文1997『長野県の歴史』山川出版社
平松令三2005「善光寺の信仰とその勧進念仏聖親鸞」『親鸞の生涯と思想
』吉川弘文館
宮下潤子1986「信濃の勧進聖-融通念仏聖を中心として-」『仏教民俗学大系』 第2巻 名著出版

余談:2年前からけいはんなの知的クラスタープロジェクトで言ってきていた、GPS携帯電話とオートジャイロを使った歴史遺産の3D情報の提供を具体化する仕組みと同じものが、KDDIから発表された
http://www.yomiuri.co.jp/net/news/20060328nt03.htm
携帯をとりまく時代は、予測した通りに進んでいる

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2006年4月 4日 (火)

善光寺について考える4

それ以前の時代と同じように、そしてそれ以降の時代と同じように
鎌倉時代においても、日本列島の各地でしっかり人々の生活がおこなわれていた
しかし
確実にそれを物語ってくれる場所はそれほど多くない
厳密に言えば鎌倉時代後期であるが、それを知るために最もよく知られている史料は『一遍聖絵』である
この絵画史料に描かれている風景をたずねて一遍のあとをたどることで、その時代の主要な場所をめぐることができる

ただしいずれの場所をとってみても
室町時代の地域拠点のような華やかさはあまりみられない
鎌倉時代の日本列島というものは、京や鎌倉といった他と隔絶した中心があって
とくに東日本は鎌倉に集約されて、その他の地域はすべて静かな農村だったように見える
そうなのだろうか
『中世都市研究』で取り上げられた「都市的な」遺跡をみても
多くは室町時代の遺跡であり
鎌倉時代の遺跡は京都・鎌倉・草戸・博多と限られてきた
しかし
必ずしもそうではないことを、私たちは網野善彦や石井進から学んだ
かろうじて先年より、ようやく福原に目が向けられるようになったが
どこか鎌倉時代の遺跡の見方が足りなかったのだろうか

今回の調査で明らかになった善光寺門前の鎌倉時代遺跡は
そんな鎌倉時代研究に必要な重要な手がかりを与えてくれる可能性があると
強く思う

先に述べたように鎌倉時代の地域拠点をリアルに説明する事例はあまり多くない
ただし見方を変えればその可能性のある場所は少なくない
畿内では石清水門前と淀、日吉門前の坂本、敏満寺門前の多賀
瀬戸内の尾道、信濃の上田
東北日本海の遊佐、東北太平洋の松島
南九州の金峰、小樽の大川
これらの場所については、これからもっと注目していかなければならない
けれどもこれらの全ては水上交通の要衝である
平安時代末から鎌倉時代に発展する多くの地域拠点は、平氏と北条氏に特徴づけられる水上交通が大きなポイントとなってきたからである

これに対して、善光寺門前はこれまでこの時代の遺跡研究が経験したことのない内陸の地域拠点である
当然、これまでの見方に加えて、新しい見方を考えなければならない
それはなにか

その手がかりのひとつはやはり断面がV字の溝である
既にこれまで何度か紹介しており
『交流・物流・越境』(新人物往来社)でも書いたが
平安時代終わりから鎌倉時代初めの断面V字の溝は
特定の館にステイタスのように設けられた特殊な溝だと考えている
その象徴が平清盛にかかわる福原の溝であり、源頼朝にかかわる鎌倉大倉の溝だと思う
今回善光寺門前で見つかった溝も、時期はそれらよりやや下るが
また、事実関係の確認をしないといけないが
中国陶磁器を出土し、京都に似たかわらけを出土しているならば
地域の拠点を構成した施設の条件を、十分満たしていると思う
大げさな言い方をすれば、福原の都や源氏の棟梁の館に似た施設が、この場所にあったということになるのである

周知の記録ばかりであるが、落ち着いて史料にもどってみよう
治承3年(1179)善光寺焼失
文治3年(1187)源頼朝が信濃領主に再建協力を命ずる。
建久2年(1191)再建
建久8年(1197)源頼朝が大勢の御家人を率いて善光寺に参詣
良く言われてきたように、源頼朝が善光寺に対して大きなサポートをしていることがわかる

そしてその後の記録で、意外な人物が信濃に関わっていることが知られている
安貞元年(1227)閏3月、知行国主の前大納言藤原(滋野井)実宣(さねのぶ)が銭500貫文を払った人に信濃の国務を与えると公募し、藤原定家が銭300貫文で請け負う
その時の信濃についての情報は
 「信濃は国司無用の地。鎌倉方の武士が200人余。みな名主支配」
 「鎌倉の執権北条泰時と守護の重時に挨拶をすべき」
安貞元年7月、藤原定家は信濃へ国情調査の使者を派遣
使者は京都から鎌倉をまわって善光寺へ向かったが、その時の報告によれば
 「木曽の架け橋は無い。更級の南西に姨捨がある。浅間の峰の石が燃える。千曲川は大河。国の南端から善光寺まで6日かかる。善光寺の近辺は<後庁>で、<眼代>たちの居所。国中の田地はみな良好だが、承久の乱後、国主の使者の働きが悪く、収入は少なく、国庁の官人たちは武士で命令を聞かない」
とある

ここに<眼代>と<後庁>が登場する
眼代とは目代のことで、国司の代官として地元で実務をおこなった人物のことを言うが、それをふまえれば、<後庁>とは、本庁の信濃国府が松本におかれていたのに対して、分庁だが実質的な役所として善光寺におかれた施設と考えられている
さらに文永2年(1265)には、善光寺の「寺辺の悪党を鎮め、警護のため」に近辺の御家人を奉行人に命じた記録がある
これは、この時代の信濃に鎌倉の支配力が強かったことを示すものであるが
それゆえ、藤原定家の使者が挨拶に行った後庁には、当然鎌倉の役人がいたことも考えられる

鎌倉時代の信濃に対する京の支配拠点は現在の松本にあり
一方で鎌倉の支配拠点は現在の上田にあった可能性があるが
善光寺はその両方の権力が集まっていた特異な場所であったことになる

平安時代以来の系譜をひく国府の分庁であり、かつ鎌倉の代表機関であった「後庁」がここにあったとするならば、鋤柄は、福原と鎌倉の例を元に、その周囲の濠は断面がV字のいわゆる薬研濠であるはずだと考えている。

ただし現在の「後町」は、今回の調査地から南へ下りた長野信用金庫大門町支店のある交差点の南東(東後町)から後町小学校のある南県町の東(西後町)までのひろい範囲にある
ゆえこの地名を尊重するならば、今回の調査地は「後庁」そのものではないとも言える
後町小学校の近くを裾花川の急流路である八幡川がとおっているように見えるので、これも現地で確認して考えをすすめてみたい
(現在の後町の東には問御所という地名があり、隣接して室町時代初期の板碑をもつ十念寺もあるため、この後町は、漆田の中御所とあわせて室町期の中心施設を示す可能性もある)

ところで今回の溝からはおよそ13世紀後半の中国陶磁器が出土しており
それより新しい時期の遺物がみられない(と思う)ため
溝に囲まれた館は、13世紀後半を中心とするあまり長くない期間に機能していたと考えられることになる
そこで年表にもどれば
藤原定家の使者が善光寺の後庁を訪れたのは1227年の13世紀前半で鎌倉の勢力の強い時期であった
しかし先の文永2年(1265)に幕府が御家人を奉行とした云々の記事は、それ以前に任命した奉行が不当なはたきをしたため、彼らを罷免した旨が記されており、この頃から善光寺が園城寺の京方と結びついたとも評価されている
したがって、今回見つかった溝が13世紀後半に埋められていることは、この間の事情をあらわしているという解釈も可能ではある

いずれにしても今回の調査成果は
鎌倉時代の善光寺の周辺が、単に宗教の場だっただけではなく
北信濃の政治や経済も集中した鎌倉時代の一大拠点だったことが明確に示されたという点で大きな意味をもち
さらに全国的に不透明であった鎌倉時代の地域拠点について見直す手がかりを与えてくれたと言う点で非常に大きな意味をもつと思う
もちろん
この溝が埋まった前後の
文永8年(1271)には一遍が北陸から越後国府(現在の上越市)を経て善光寺に参詣し
正応3年(1290)には大納言久我雅忠の女二条が7ヶ月間善光寺に滞在し
永仁6年(1298)には一遍の後継者の他阿真教が善光寺に参詣し、それを描いた絵画には多くの人々がみえる
門前には寺に属した仏師や彩色師なども住み、参詣者のための宿も整備されていただろう
東日本を代表する大寺院であったことは言うまでもない

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2006年4月 3日 (月)

善光寺について考える3

結論から言えば、鋤柄は3月18日に公開された大門町の鎌倉時代の溝を
鎌倉幕府の出先機関の役割を果たし、国府の出先機関でもあった「後庁」か
その関係施設に伴う館のまわりを囲んでいた溝だと考えている
ただ、この遺跡の場合、この話題はそれだけにはとどまるものではない

考えなければならないポイントを順番に整理していきたい

・遺跡から推定できる資料として、古いものでは善光寺境内から瓦が出土し、それらが飛鳥の川原寺や法隆寺に似ている複弁蓮華文軒丸瓦と唐草文軒丸瓦であることから、善光寺の瓦葺き建物の起源を白鳳時代か平安時代とされてきたが、昭和56年に長野市若槻上野で発掘があり、この瓦が平安時代の土器と住居跡から出土し、文様の作りも均整がとれていないため、9世紀後半ではないかと考えられている。
古代において瓦を葺いた建物は、官衙か寺院に限られるため、すくなくとも9世紀後半には善光寺境内周辺に瓦を葺いた寺院があったことは確かであろう。
一方『善光寺年代略記』などにより大同4年(809)、弘仁5年(814)、天延3年(975)などの火災記事があるので、瓦にこだわらなければ、さらにその記録を遡らせることができるとも考えられる。

・善光寺にかかわるエピソードは、平安時代末期の『今昔物語』に載っておらず、『宇治拾遺物語』には信濃国が無仏世界と描かれているという。
とくに記録に善光寺が頻出するのは、善光寺が園城寺の末寺となった1100年以降?で、永久2年(1114)には善光寺別当の従者が京都の法勝寺境内と乱暴し、元永2年(1119)には宇治の平等院が船を用意して鳥羽天皇の中宮の藤原璋子(待賢門院)をもてなし、鳥羽北殿から船で出て、神崎(尼崎)にあそんでいるが、この時、善光寺別当清圓も一緒だったという。
また九条兼実の弟の前大僧正覚忠(1118~1177)(天台座主で、西国三十三カ所巡礼を最初に行った人で、善光寺はその番外に位置づけられた)が善光寺に参詣している。
また『扶桑略記』の成立も平安時代末である。
これらの状況は、それまでの善光寺がその後の善光寺よりは世に知られていなかったことを示す可能がある。
 
・そうすると、すくなくとも平安時代前期から堂舎を構え、平安時代末期に一躍全国的に注目されることになった善光寺の背景にはなにがあったのだろうかという疑問が当然わいてくる。
古代における一般的な寺院の成立は氏寺または山岳信仰系とみていいだろう
例としてふさわしいかどうかわからないないが、京都盆地では、平安京遷都以前に、秦氏の北野廃寺、出雲氏の上出雲寺と下出雲寺、粟田氏の北白川廃寺、古墳の連立する向日丘陵の樫原廃寺、中臣氏に関係するとも言われる山科の大宅廃寺、そして八坂造の法観寺
いずれも京都盆地をめぐる丘陵縁辺部に立地し、おそらくその下位の平坦面を再生産の場としていた集団の精神的な紐帯となっていた

一方善光寺の立地を見た場合、およそ現在の昭和通周辺は旧裾花川の支流とされる南北の八幡川を境に大きく地形が異なる
(この川に面して昭和通のすぐ北にある鍋屋田小学校が卒業した学校)
その南はほぼ平坦地となって犀川に達するが、北は急に傾斜を強め城山公園の乗る善光寺の平坦面に達する
善光寺平の北の縁辺にあって、南の平坦面を見下ろす丘陵先端に位置すると言って良いかもしれない

さらに、福島正樹さんによる2003年3月15日の「信濃毎日新聞」のレポートによれば
http://user1.matsumoto.ne.jp/~fukusima/jyori.htm
旧長野市街は善光寺の東にひろがる(1)三輪・吉田地区と善光寺の南東にひろがる(2)古牧・朝陽・柳原地区と、善光寺の北に位置する(3)浅川以北の若槻団地の3つの地区に条里でわかれ
先の八幡川が柳原方面を、裾花川を水源とする人工的な鐘鋳川が三輪と吉田を
、浅川が若槻団地の灌漑を担っていたという
また、善光寺の北西からは、長野西高等学校の西を流れる湯福川が流れ込み、中世には現在の善光寺三門付近を流れていたという
そして問題は人口流路である鐘鋳川の開削時期で、福島さんは『一遍上人絵巻』で善光寺の南大門の前を流れている川がそれだとして、善光寺の台地の南辺を等高線に沿って北東に回り込んでいるこの川の開削時期を、8世紀末から9世紀初めとして、三輪から吉田の条里成立の時期を推定している

さらに、善光寺の仁王門付近を東西にはしる道筋が、三輪・平林・和田・石渡・尾張部へ続く「中道」で、江戸時代以前からの東の参道でかつ条里線だともいう
非常にすぐれた考察だと思う。とくに鎌倉時代の本堂は、そのすぐ北にあったとされており、違和感なく関係が理解できる
そして8世紀末から9世紀初頭にこのような開発がおこなわれたとするならば、それをおこなった人物がとうぜんこの場所におり(金刺氏だろうか)、その氏寺がここに営まれたとするのは至極当然の理解で良いと思う
一般的な古代の地域拠点は、荘園または国衙領の支配を前提とした国府あるいは国府に近い水上交通の流通拠点であり、寺院はそれに付属する関係あるいは、山岳信仰にかかわるものが多く、戸隠や飯縄との関係も考えてみたが
おそらく古代における善光寺周辺の風景の再現は、これらの条件で満たされるものと思われる

ただし平安時代末期以降については、現在の町並みに見える地割りは複数の軸線をもっており、その説明を考えるためにも、湯福川と鐘鋳川の流路の確認と仁王門から今回みつかった溝の距離の確認もどうしてもしたい
それまではどちらかというとオーソドックスな古代寺院の一例としての存在だった善光寺が、平安時代末に突如として全国から注目される
その背景にはなにがあったのか
そして善光寺門前の風景とは

ここではそのてがかりを
同じ時代に大活躍をしていた石清水神人や日吉神人そして白山神人との存在と対比して考えてみたい

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2006年4月 2日 (日)

善光寺について考える2

ヨシミツである
ヨシミツと聞くと、このブログの常連さんたちは、すぐ「足利」かと思うかもしれないが今回はちょっと違う
ヨシミツと読むのかどうかはわからないが
漢字で書くと「本多善光」となる。息子は善佐という。
生きていたのは推古天皇の時代だから7世紀
生きていた場所は信濃の国麻績の里で現在の長野県飯田市座光寺周辺という。あるいは水内郡とも
エピソードにはいくつかの読み方があるがその骨子は次のようなものである
彼は推古10年(602)に難波の堀江で見つけた一光三尊の本尊を持ち帰り、麻績の里の自宅の臼の上に祀っていたことから「坐光寺」という名がつき、その後、皇極元年(642)に水内郡芋井郷へ遷座され、彼の名前に由来する「善光寺」が創建されたという。
よって
鎌倉時代の善光寺門前の歴史をひもとく最初の案内人は
善光寺の縁起に深く関わるこのヨシミツという人物にしたい(若麻績東人という人物とも重なる)

荒削りではあるが、ここはやはり静かに史料の確認から始めたい
まずは一般的な知識から

各種日本史辞典によれば、長野市にある天台宗および浄土宗の別格本山。
山号は定額山、古来四門四額と称され、東門を定額山善光寺、南門を南命山無量寿寺、北門を北空山雲上寺、西門を不捨山浄土寺とする
本尊は一光三尊阿弥陀如来で善光寺如来とも呼ばれる。
創建は皇極元年(642)と伝える。

度々の火災の後、文治3年(1187)に源頼朝が再建に着手。建長5年(1253)に北条重時が供養を遂げる。
平安時代末期から、浄土教の成立と発展と聖徳太子信仰と結びついてさかえ、生身弥陀の浄土として全国総菩提所として全国から追善の遺骨や納骨が集まり、背後の大峰山には数千基におよぶ五輪塔がみつかっているという
また一遍に代表される念仏の中心地ともなり、全国に200を越える善光寺がつくられた
今昔物語を原型にしたと言われる、有名な「牛にひかれて善光寺詣り」や「遠くとも一度は詣れ善光寺」は、多くの人に親しまれた善光寺信仰の姿を表現したものだろう

本尊は戦国時代に武田信玄によって甲斐善光寺に移され、天正10年(1582)岐阜の清須・岡崎・吉田・甲府を経て、慶長2年(1597)には豊臣秀吉が京都方広寺の本尊としたが、翌年信濃善光寺に戻し、豊臣秀頼の寄進によって、1600年に如来堂が再建された。

現在の本堂は国宝で、元禄5年(1592)に計画され、1700年に松代藩に普請が命ぜられ、江戸谷中の感応寺住持の慶運が善光寺大勧進に任ぜられ、5年間の諸国出開帳で24577両の浄財を集め、幕府大棟梁の甲良豊前入道宗賀の設計で宝永4年(1707)に完成。東西7間南北17間。近世の大寺院を代表する建築という

ちなみに甲斐善光寺には、善光寺から移されたという梵鐘がある。記録によれば、治承3年(1179)と文永4年(1267)に善光寺の火災の折りに修理され、正和2年(1313)にも補鋳。「引きずりの鐘」とも呼ばれている。

現在善光寺の寺務職を勤めているのは、天台宗の大勧進と浄土宗の大本願である。以前は妙観院と称して権別当職にあり、経衆の首班だった大勧進は、一時真言宗の醍醐寺に属していたが、1643年に寛永寺末となり、大本願は尊光上人を開山と伝える尼寺で、はじめ三論宗であったが、65世の時に浄土宗になったという。

現在の門前の風景は、おそらくこの地が1614年に北国街道の宿駅になったことを原型とし、本陣の藤屋が今回の調査地のすぐ東にあることは前に書いた通りである

さて、このような善光寺の縁起にかかる最も有名な史料は『扶桑略記』である
『扶桑略記』は神武天皇から堀河天皇の嘉保元年(1094)までの歴史書で、仏教史を中心として、様々な霊験記・往生伝・寺社縁起などを元にまとめられている。編者は比叡山の皇円阿闍梨とされる。

その中に善光寺阿弥陀佛像の由来と、引用されている「善光寺本縁起」があって
まず或記にいわくとして、欽明天皇13年10月に百済明王が一尺五寸の阿弥陀仏と一尺の観音・勢至像をもたらしたが、信濃国善光寺の阿弥陀仏はそれで、推古天皇の時代に、それを秦巨勢大夫が信濃に送ったという
また「善光寺縁起」にいわくとして、同じ欽明13年(552)に百済から阿弥陀三尊が摂津の難波津に来たが、これが最初に日本列島に来た仏像である。推古10年(602)に仏の託宣によって綸言が下され信濃国の水内郡に移された
『扶桑略記』には「かの寺の本縁起の文からとして」その仏像の鋳造にかかる詳細な経緯も記されており、その内容ははなはだ難解ではあるが、一般的な解釈はこのようなものだと思う

これに次いで、麻績村が登場するのは
1180年頃成立した国語辞書の『色葉字類抄』に、鎌倉時代に増補をしてできた10巻本の『伊呂波字類抄』で
仏像は推古10年(602)に信濃国麻績村へ移された後、皇極元年(642)に水内郡に移り、善光寺が創建されたとある

さて、創建されて以降の善光寺であるが
『善光寺年代略記』は大同4年(809)に火事のあったことを伝えており、別の『古記』によれば、弘仁5年(814)、天延3年(975)、天仁元年(1108)などの火災記事が知られ、その後に有名な治承3年(1179)3月の金堂および廻廊以下焼失の記録が続く
さらに一般に『応永縁起』と呼ばれる『善光寺縁起』(作者不明、4巻)によれば、応永34年(1427)にも火災のあったことが知られている。
なお、この縁起は『続群書類従』釈家部などに収録されており、室町時代以降の善光寺如来信仰を知る上で重要史料と言われ、善光の息子の善佐はここに登場するという。

ちなみに「善光」という人物については、同じ『扶桑略記』の天智天皇3年に、百済王善光が来朝し、難波に住んだという記述がある。
この記事は『日本書紀』の天智天皇3年(670)3月を元にしているが、その註によれば、百済王善光は百済の義慈王の子か弟かとされ、『続日本紀』の天平神護2年(766)6月28日条によれば、舒明朝(629~641)に豊璋と共に入侍、百済滅亡のために帰国せず、持統朝に百済王と賜姓。持統7年(696)に没すとある。

なお『日本書紀』に登場する「善光」を探せば
・崇峻天皇3年3月、学問尼善信尼が百済から帰って櫻井寺(豊浦寺)に住んだ時、得度した尼の中に「善光」がいる。崇峻の即位の用明2年(587)、物部守屋が蘇我馬子たちの攻撃に敗れ、聖徳太子によって四天王寺が建てられ、また飛鳥に法興寺が起った直後である。
・天武4年(676)、さきの百済王善光が正月の祝宴で薬などを進上
・朱鳥元年(686)、天武の死に際して、百済王善光に代わり百済王良虞が弔う
・持統7年正月15日、百済王善光に正廣参を賜う。
などとなっている

「そして歴史は伝説になり、伝説は神話になった」という
これはロード オブ ザ リングの中の有名な台詞であるが
善光寺へのアプローチもまた歴史の闇につつまれて一筋縄ではいきそうにはない
確かめなければならないことが多いまま探索を続けるのは限界に近いので
ポイントを絞って次に進みたい

鋤柄のこだわりは言うまでもなく3月18日の説明会で見ることのできた善光寺門前の鎌倉時代の風景である
しかし中世の風景を描くためには、その背景にあった古代の善光寺についても知っておかなければならない
これはそのための長い助走である
その点で小林計一郎さんの『善光寺史研究』や『長野市誌』をもとに、非常に興味深い話しを小林一郎さんがされている
タイトルは「どうして長野に善光寺があるのか」
http://www.h7.dion.ne.jp/~tsumugu/tsumugu020317.htm

・現在の善光寺周辺には水内郡の郡衙があり、科野国造(しなののくにのみやつこ)の末裔である郡司の金刺(かなさし)氏(または若麻績氏)が造営した寺があったのではないか
(金刺氏の関係については信州考古学探検隊さんのサイトも参照)
http://homepage3.nifty.com/himegappa/jisha/hokushin/houri.html
・「延喜式」に載る「式内社」の中で、とくに霊験が著しいとされる名神大社の「健御名方富命彦神別神社(たけみなかたとみのみことひこがみわけのかみ)」がここにあった可能性
・仁王堂から東へのびる「中道」は、長野市東部に残る条里遺構の基準線にあう。中道は水内郡の郡衙と高井郡の郡衙をつなぐ道か。
善光寺平と朝鮮半島の文化とのつながりを強く意識することに重要性とあわせて、よりリアルな地域史にせまる指摘だと思う

それから遠藤薫さんによる「聖地の構造:善光寺とディズニーランド」http://endo-lab.org/paperF/Seichi.pdfという「異界との接触点」に注目したレポートも非常に参考になると思う

さてそれではこのような古代の背景をもった善光寺の中世的な風景とはどのようなものだったのだろうか
これまでの要素を分解して整理しながら考えてみたい

☆ここまでの探索で確かめなければならない資料
『扶桑略記』国史大系(国会図書館の近代デジタルライブラリーhttp://kindai.ndl.go.jp/index.htmlで国史大系が見られます)
『日本書紀』日本古典文学大系
『続群書類従』
『伊呂波字類抄』
米山一政1957「善光寺古縁起について」『信濃』9-6
坂井衡平1969『善光寺史』上・下 東京美術
吉原浩人1986「安曇川町太子堂蔵『善光寺如来絵伝』考-続群書類従本『善光寺縁起』との対照を中心に-」『早稲田大学高等学院研究年誌』30
長野県1986『長野県史』通史編2 中世1
牛山佳幸1991「信濃善光寺史関係文献目録」『寺院史研究』2
牛山佳幸1996「信濃善光寺史関係文献目録補遺(その1)」『寺院史研究』5
牛山佳幸1997「『善光寺縁起』の成長」(長野市立博物館特別展図録『古代・中世人の祈り-善光寺信仰と北信濃-』
長野市2000『長野市誌』2 歴史編 原始・古代・中世
小林計一郎2000『善光寺史研究』信濃毎日新聞社

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2006年4月 1日 (土)

入学式

Sany0173同志社大学 文化情報学へ入学のみなさん
入学おめでとう
前日までの寒さが すっかり緩み
春のひざしいっぱいの京田辺キャンパスでした
頼りがいのある先輩達がみなさんを大歓迎しています
すてきな青春をすごしてたくさんの思い出をつくってください
http://scoophand.cocolog-nifty.com/nyugakusiki.MP4
http://scoophand.cocolog-nifty.com/orite.MP4
http://scoophand.cocolog-nifty.com/orite02.MP4

ということで、この数日善光寺のことばかり考えている鋤柄は
5月19日~21日に長野に行こうとかと思い詰めている

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