« 大門の遺跡を学ぶ | トップページ | 多くの人が平等に遺跡の情報を得られる努力 »

2006年5月21日 (日)

中世の善光寺門前を歩く

天気予報によれば、土曜日は終日雨とのことだったが、見事に晴れてくれた
8時すぎに長野駅の6番ホームでかけそばを食べながら、そのつゆの色と味にうなる
Pict2848長野県立歴史館は、かつて長野と東京をつないでいた大動脈の信越線屋代駅から歩いて25分の森将軍塚古墳の麓にある
その信越線は、長野新幹線が出来たことで碓氷峠で分断され、長野県の一部の区間がしなの鉄道と呼ばれる路線になっている
碓氷峠は古代東山道の入山峠にあたり信濃と東国をむすぶ重要な場所だった
その意味で信越線はとても深い歴史性をもっていたはず
峠の釜飯が有名で、急勾配を登るために鉄道マン達がとても苦労した話しもたくさん残っている
だから信越線が無くなるという話しを聞いたとき、体の中で少し動揺が走ったことを覚えている

ともかく前夜の雨で少し湿度の高い屋代の街を、記憶をたどりながら歴史館へむかう
昨日から古代瓦の企画展が始まっていて、そこにあの善光寺瓦が展示されているのである
歴史館の川崎保さんと福島正樹さんにご案内いただき、瓦の展示を見て常設の善光寺展示を見る
神津さんと米山さんの研究をふり返りながら県内の古代寺院の跡をたどる
今更ではあるが、善光寺を初めとして、長野には謎に包まれた古代寺院が多くあって
それらが信濃の古代を明らかにするときの重要なポイントになることを思う
若槻にも古い伝承をもつ寺院があるというし安曇野市の明科廃寺(桜坂窯や瓦塔や重弧文の瓦に関係する)についてもまったく知らなかった
古代寺院と集落を道や川とつないでいく遺跡学とGIS的な考え方の有効性がここでも試みられるのではないかと思う
福島さんに善光寺周辺の古代景観にかかる貴重なお話をうかがい
ここでも再会を期して12時すぎに長野へもどる

いよいよ時空を越えた中世の善光寺門前探索の開始である
最初に中御所の御所遺跡へ
長野駅を東口へ出ると、とにかく陽射しが眩しい
小学校6年から高校卒業まで、この東口から歩いて5分くらいのところに住んでいたはずなのだが
まったくその場所がわからないほどに街が変わっていた
目的の御所遺跡を地図で確認して線路沿いに南西に歩き出す
こちらは再開発がおよんでいないようで狭く入り組んだ道が残っている
Pict2850 目印の郵便局と観音寺を見つけて、御所天神(八幡)へ向かう
姫河童と加茂鹿道さんのサイトによれば、この郵便局の前の道は松代街道で、善光寺の門前からまっすぐ南下する条里線とのこと
であるならば、守護所推定地とされる御所遺跡は実にふさわしい場所にあったことになる
Pict2852 現在の御所天神(八幡)は、合格祈願の旗が並ぶ小さなお堂が建っているだけだが、「御所八幡」となれば、「花の御所」でも有名な室町時代の武士の邸宅に付属した施設であるため、ここを起点にして守護所を復原する重要な手がかりになる
長野市埋蔵文化財センターの案内によれば、少し盛り上がった地面を中Pict2853 心とした一角を主郭とされているが、たしかに御所天神のあたりはまわりから高くなっている
基本的に平坦な地形なので目立つ
地図を見て北へまわると屈曲を繰り返しながら流れる川がある
よくある形では、自然河川を堀に利用してその形によって館の輪郭を推Pict2854 定することができるので、ここもそうかとも思う
犀川に船着き場があって、そこに近い場所に拠点をおいた守護所
条里地割りと水路と字名とレイヤーを重ねてみたい
どこかで見た風景に似ているが・・・と思いながら、線路で分断された松代街道に代わる跨線橋を越えて善光寺へ向かう

福島さんにの教えていただいた地図を片手に長野大通りを北上し川筋をさがす
これも知らなかったことだが、長野市街の西を区切る裾花川は江戸時代のはじめに開削されたものだという
江戸時代最初の河川改修では富士川や高瀬川や大堰川や鴨川の工事で有名な角倉了以がいるが
ここでもそういった工事がおこなわれていたとは知らなかった
それではそれ以前の裾花川はどこを流れていたかというと、長野市街を北西から南東へはしる複数の道がその痕跡で
その代表が南八幡川と北八幡川と言われている
現在ほとんどは暗渠となっているが
Pict2858 南八幡川は長野大通が昭和通に出る直前の西側に公園整備され、掲示板とともに見ることができる

一方北八幡川はそこから北西に少しいった鍋屋田小学校の南を流れてPict2861 いる川で
実は鋤柄はこの学校の卒業生なので、長いこと見ていたことになる

このふたつの川を確かめながら中央通の東の道を権堂へむかって歩く途中で遠雷が聞こえ出す
西を見ると旭山はすでに厚い雲に覆われている
歩みを早めながら善光寺へむかったが大門町に入った時には雷雨のど真ん中
なんとか元屋に入って雨宿りを兼ねた昼食に
2時前だった
元屋さんは知る人ぞ知るという蕎麦屋さん
表向きは目立たないが、その味によって地元の人たちと通が密かに守っているお店である
灯明せいろを頼んだ時に、メニューの蕎麦焼酎にも目が行ったがぐっと我慢して地図を取り出す
2時半前、少し雨脚が弱まった頃に店を出て善光寺へ向かう
ふと思いついて大本願の向かいにある白蓮坊に入る
ギャラリー蓮という万華鏡の有名なお店がある
普通の万華鏡とちがって風景を万華鏡にしてしまうという不思議な空間にしばし身をゆだねる
ちなみにここのご住職はパステル画の世界では名の知られたアーティストでもある

Pict2865 白蓮坊を出ると雨はもうほとんど上がり再び陽の光が射し始める
青雲たなびき光明が射すとはこんな感じだろうかと思いながら大勧進を通って善光寺を北へ出る
実は善光寺をとりまく形でもうひとつ重要な川が流れており湯福川という
その川を遡ることで刈萱上人の最後の修行地といわれる往生寺へ向かうPict2881 ことができるので
歩みをそこへ向ける
善光寺の北の道を西へ向かい地福川に沿ってすぐに湯福神社という大きな神社に着く(日本書紀持統5年に風鎮祭の神として、竜田と諏訪と共に登場とのこと)

Pict2886 山から下りてきた湯福川は、ここから緩斜面を流れることになり、地形的にも重要な場所
往生寺へはここから湯福川と別れ、一筋南の路を西へ登る
往生寺は善光寺平を全て見渡すことのできる高台にある
まっすぐ見下ろせば善光寺が見え、右手に裾花川が、前方遠くに犀川とPict2898 千曲川が流れ、さらにその先の丘陵斜面まで見通せる
雷雨が空中のほこりをきれいに洗い流してくれたため、景色が奇跡的なほど鮮明に見える
はるか南に、午前中行っていた森将軍塚まで見られたのには驚いた

Morishogun しっかりこの風景を頭に刻みつけて山を南下りる
善光寺の風景を語る上で最も重要なアイテムとしての人工河川の金鋳川をたどるためである
裾花川にせり出している段丘を下りて加茂小学校から長野商業高校の脇Pict2916 を抜けて妻科神社へ
現在この神社が金鋳川の取水点になっているようだが
傾斜変換点にたつ妻科神社についても当然注目されるモニュメントだろう
福島さんが言われた通り、金鋳川の右岸と左岸で傾斜の変わっていることを確認しながら
信濃教育会の建物の前と市立図書館の前を通って善光寺の東へまわりこむ
Sany0234 金鋳川が暗渠を抜けてその全貌を現した場所まで行って再び善光寺に戻る
ちょうど大本願の坊舎地区の南の路に出る
注意してみると、この路から北で明らかに段をも って地形が変わっており
鎌倉時代の善光寺境内と推定されているその地区が他とSany0237区別された空間だったことがわかる

表参道にもどってゆっくり下りながら現在の街並みを観察する
そこであらためて気がついたのだが
平清盛の福原も大坂城下町も名護屋の城下町同様だが
ここも斜面に街並みが設けられているため
Sany0256 当然、段々畑のような造成をしないと家は建たない
現在の善光寺境内は湯福川を改修して切りひらいたものだが、それでも地福川の氾濫に悩まされたといわれるような斜面地形を背景にもっている
しかし鎌倉時代の善光寺境内推定地区は、マクロ的にみれば丘陵斜面の中でも比較的ひろい平坦面にあたり、敷地を造成する手間はほかに比べて少なかったことが推定できる
問題はその南の大門地区であるが、地形の傾斜はけっして弱くはない
したがってそれなりの造成工事をおこなって敷地を整備していたことになる
その目で今回の遺跡を見た場合、山側を削りだして、谷側に盛り土をおこなったとすれば、今回の調査範囲ではフラットな状態で全域で地山がでているので、その点において、盛り土造成によってつくられた敷地の南側ではなく、北側だったと言えることになる
そしてその敷地の南の範囲は、溝のレベルをてがかりに復原することが可能かもしれない
南の西町遺跡でみつかっている東西軸の溝とあわせてもう一度考えてみたい
Sany0244やはり旧地形の復原とあわせた3次元表示の遺跡情報システムの開発が必要だと実感
そして金鋳川は古代・中世の善光寺景観を復原する上で最重要アイテムだということがよくわかった

Sany0250北八幡川の北にある十念寺と、 南八幡川の南にある刈萱堂を訪ねながら長野駅まで下り
18時半から高校の友人たちと会う
30年の時空が跳び皆やんちゃな高校生にもどる
けれどもその子供が同じ上松の高校に通っているという話しを聞くと
30年の時を覚えておもわず頭に手をやる
0521再会を期して分かれたのは日付が変わった後だった
また明日学校へ行けば会えるような雰囲気のまま

日曜日の朝、再び善光寺を詣でた後、列車に乗る
しなの6号は眩しい高原のひかりの中
長野道とおいかけっこをしながら筑摩の山塊をぬけていく
聖高原をすぎてふり返ると北アルプスにはまだ雪が残っていた

いつもそうなのだけれど、今回の旅もまたたくさんの出会いに恵まれた
遺跡探索はたくさんの人に感謝する旅でもあると思う

|

« 大門の遺跡を学ぶ | トップページ | 多くの人が平等に遺跡の情報を得られる努力 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 大門の遺跡を学ぶ | トップページ | 多くの人が平等に遺跡の情報を得られる努力 »