« 鳥羽離宮について考える3 | トップページ | 都市について(何度目かの個人的な体験) »

2006年9月13日 (水)

西園寺公経

あくまで個人的な感想ではあるが、歴史を学んでいて一番面白いと感じる時は
「つながった」と思った時かもしれない
物理法則や自然科学の理論では絶対におさまらない人間社会と文化というカオス
そのごった煮のような情報の中で、手探りで因果関係をさがして右往左往する
先学の本を読んで、資料にあたって、現地を訪れて
時には滅入りそうになりながら、そんな日を何日も過ごして
頭の中にいろいろな情報が染み込んでいって、それぞれがシナプスを意識したと感じ始めた時
突然「つながった」と思う瞬間を迎える時がある

1957年に刊行された『鎌倉時代』という大著がある
龍粛という大正から昭和に生きた歴史家の著作である
その中に西園寺家の興隆とその財力という章がある
中江兆民らと「東洋自由新聞」を発行し
政友会総裁をつとめ、2次にわたり内閣を組織し、明治から昭和の時代に大きな足跡を残した
あの西園寺公望の家である

西園寺氏は九条右大臣藤原師輔の第10子の公季(きみすえ)より出る
公季の兄は兼家で、その兼家の子が道長なので
公季の家系は、藤原家本流の脇で、大納言を最高官位とするにとどまったと言う
四世の孫公實(きみざね)に實行(さねゆき)・通季(みちすえ)・實能(さねよし)の3子がおり、それぞれが三条・大宮・徳大寺を称し、ちなみに元老西園寺公望は徳大寺公純の子になる
このうち次子の通季が父の意思で家を継ぐことになり
京の鎌倉で最も有名な人物の1人となった西園寺公経は、内大臣まで進んだ通季の孫の實宗の子になってくる

鎌倉時代研究にとっての西園寺は、公経が関東申次の役をもったことで
九条兼実と共に不可欠な存在ではあるが
一般には、九条兼実よりは知られてあらず、網野善彦さんが、瀬戸内海流通に関係してその存在に注意を促してはいるが、あの金閣寺が元は西園寺公経の建てた寺屋敷だったということもほとんど知られていない

しかし、西園寺公経の北山殿または西園寺はとてつもないものだったようだ
元は神祇伯仲資王(仲資王(保元2年(1157)~貞応元年(1222))は、神祇官の長官である神祇伯を世襲した、花山天皇皇子清仁親王の子延信(のぶざね)王に始まる伯家の白川家当主)の所有地で、極めて辺鄙なところだったが、西園寺公経が夢で源氏中将の病を養った遺跡とみて、思いを募らせ、尾張にあった自分の松枝荘と交換して整備したという
山容を変え、泉水を湛え、阿弥陀如来を安置した西園寺を本堂とし、多くの殿堂と豪壮な別荘を建て、人境外の仙園と喧伝されたという
『増鏡』によれば
元仁元年(1224)12月2日に北白川院(持明院基家の娘陳子)と安嘉門院(陳子の娘)を迎え、盛大な落慶の宴がおこなわれた
公経は、北の寝殿を住居とし、周囲の山々に桜を植えて、「山桜、みねにも尾にも植えおかむ 見ぬ世の春を人やしのふと」とうたったという
また道長の法成寺を豪華の極地とされているが、この北山はさらに林泉の美が加わり、優るとも劣らずと評された
その後、嘉禄元年(1225)に不動堂と愛染堂が建てられ、安貞2年(1228)から貞和5年(1349)まで退転なく、寛喜元年(1229)には北隆石と呼ばれた大石が立てられ、17頭の牛で運び込まれたと言い、土御門通方は松の生えた石を提供したとされる

また公経は別に天王寺・吹田・槙の島・吉田・山崎にも山荘をつくり、
吉田の泉亭臨幸に際して赤地の錦でつくった橋を泉水に架け
山崎の圓明寺(医王寺)は紅葉の絶勝地で
吹田では近くの江口の遊女を招き、有馬の温泉から毎日200の桶で湯を運び入湯し
有馬には新たに湯屋を築いたという

この公経の贅を尽くした遊興や造作の資金がどこからきたものかというと
仁治3年(1247)7月4日に、公経が宋に派遣した唐船の入港があり、10万貫の銭貨とさまざまな舶来物があったと伝え、清盛同様の交易による財の形成があったとされている
藤原定家は公経の姉妹と結婚しているが、明月記には、福原の平禅門を超えたとの評がある

鎌倉時代の京を語る際にはもっと大きく取り上げるべきエピソードが一杯である

そしてその公経の一番大きな力は、平氏政権の没落から鎌倉の出現を迎えた時期に作り上げた人的ネットワークだった
公経の妻は一条能保の娘であるが、一条能保は源頼朝の妹婿
公経の妻の姉妹は九条兼実の嫡子良経の妻
公経と源氏の頼家・実朝は義理の従兄弟
公経と北条政子・義時は義理の叔母・叔父、北条泰時は義理の従兄弟
そしてなにより
公経の母は持明院基家の娘で、その妹が陳子(北白川院)で、持明院殿を初めて御在所にした後高倉院の妻
その後高倉院は後鳥羽の兄
したがって、公経の母方の実家は持明院殿で、後鳥羽とも北条鎌倉とも姻戚関係を持っていたということになり
さらに、後鳥羽の母方につながる親戚が五辻殿をつくった坊門信清で、鎌倉将軍実朝の妻になったのはその娘であるため、公経は坊門家とも遠い姻戚関係をもっていたことになる
先に明月記で有名な藤原定家の妻が公経の姉妹としたが、複数ある定家の邸宅のひとつは千本五辻の近くに推定されている。これも公経が支援した関わりであろう

この数週間、鎌倉時代の京都を説明するために、その昔、持明院通と呼ばれていた現在の上立売通を(バーチャルで)彷徨いながら、そこかしこに顔を見せる西園寺公経にとまどいながら翻弄されていたが、1957年の研究書に導かれながら、公経の果たした役割は何なのか、少しつながった気がした
偉大な先学から新しい学びを受けること
綿密な資料調査とダイナミックなビジョンをもった研究であれば
それがいつおこなわれたとしても、少しもあせることはないということ
これも歴史研究にとって重要なキーワードのひとつである

|

« 鳥羽離宮について考える3 | トップページ | 都市について(何度目かの個人的な体験) »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 鳥羽離宮について考える3 | トップページ | 都市について(何度目かの個人的な体験) »