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2007年3月19日 (月)

松原内湖遺跡

彦根城から北へ車で5分ほどのところにその遺跡がある
かつては琵琶湖の内湖だった場所で、今はもうふつうの地面だが
その名も松原内湖遺跡で
まわりを低く幾重にも侵食された谷が取り囲む
その谷の1カ所から7世紀おわりから9世紀初め頃まで続いた集落がみつかった
中心的な時期は奈良時代という
谷の斜面を削りだして狭い平坦面をつくり小さな竪穴住居をいくつもつくっている
とても小さな竪穴住居で
見た目には2人か、せいぜい3人も入ったら一杯になりそうなくらい
重なり合っている住居もあるので
同じ場所にこだわってつくっていたことになる
(奈良時代後半には掘立柱建物に変わるらしい)
狭い谷の斜面の小さな村
立地から推し量れば
内湖の水産資源を生活の糧にしていたささやかな村かとおもわれる様な感じ

そんな村の遺跡から
平城宮でみつかるような土師器の皿が出てきて
きれいな形でよく焼けた須恵器も
そのうちのひとつには墨書もある
一方で漁業の営みを思わせるものはみつかっていない
どこにでもあるようなささやかな村かと思ったらどうもそうでもないような趣き

担当の小島孝修さんにしつこく聞く
こういった竪穴は滋賀県では普通なのか
こういった立地は滋賀県では普通なのか
竪穴の様子は珍しくないようだが、立地は珍しいとのこと

最初の様子を見て頭をよぎった姿があった
青森県のかつての浪岡町に高屋敷館遺跡という環濠の館がある
谷の斜面を利用して築かれた平安時代の集落である
大きな環濠の館が有名だが
そのまわりにたくさんの竪穴のあって
その風景が頭をよぎったのである
たしか移住集団の集落ではないかという解釈もあったように思う

彦根と言えば
すぐ南があの敏満寺と多賀大社のある多賀町
東は米原、その先にあるのが不破の関
関東と畿内の境界線
北へ足を向ければすぐに愛発の関の山を越えて北陸
平安時代の終わりには重源が拠点とし
もちろん安土桃山時代は信長が拠点とした
いつの時代でも畿内とその外世界との間をむすぶ重要な意味を持たされたところ
奈良時代と言えば、敏満寺の水沼荘もそうだが
東大寺が北近江から北陸の荘園経営に力を注いだ時代
なにか見えたような気がする

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