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2008年1月

2008年1月24日 (木)

鹿男あをによし(第2回)

久しぶりに冬らしい寒さが続き田辺にも雪が舞う
何度見ても玉木宏が近鉄電車に乗っている姿を見ると感動してしまうところが楽しい

伏見稲荷へは京阪電車の伏見稲荷駅から東へ歩いてすぐ
奈良から行くときは丹波橋で乗り換えることになる
ちなみに大社の手前を南北に走っている路が有名な大和大路
東福寺の西面をすぎ、平家の六波羅の西の限りとなって六勝寺へ続く

古代の京都盆地と言えば嵯峨野と秦氏が有名だが
記紀に登場する秦氏は嵯峨野より伏見の方が古い
伏見稲荷大社も秦氏と農耕に関わる伝説をもち
平安時代初めに東寺の鎮守神となり、中世には五条以南が氏子圏となる
その点で、平安時代終わりに比叡山末となり四条を中心に境内地とした祇園社と好対照である

狐も有名だが焼き鳥も有名で農耕信仰にかかわる伏見人形も有名
稲荷神が稲荷山に鎮座した日に由来する二月の初午大祭もとても有名
なお稲荷山頂には古墳があり
すぐ南西の平野部には弥生時代の大集落である深草遺跡が眠る
色々な意味で伏見稲荷周辺は不思議で意外な場所とも言える

神無月の語源については諸説あるようで詳しくは触れないが
今日、ゼミのメンバーが発表された
いよいよ4年間のまとめにむけて
大好きなことを楽しく学ぼうじゃないか

「さあ、如月だ 出番だよ、先生」

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2008年1月18日 (金)

鹿男あをによし(第1回)

080117_095302 京都駅に降り立つと雪が舞っていた
文化史特論を終え、河原町三条を経由してもどる
少し躊躇するところもあるが、秀吉の京都論もやはり載せようと思う
近鉄に乗り換えてから「おお、そういえば玉木宏だ」と思う

鯰と地震が話題になっている
鯰と地震と言えば、黒田日出男さんの『龍の棲む日本』(岩波新書)がある
中世に描かれた日本図をもとに、そこに龍と鯰と地震がからむ
興福寺南大門東南や祇園社には、その龍の穴があると言う
鹿島社にはその要石があり、竹生島も同様だとも

1月17日は阪神淡路大震災の日である
大変な災害だった
サラリーマンの性で、6時に家を出て9時に府庁の現場事務所に着いて
呆然としたことを思い出す
東灘の知人を訪ねていったことも思い出す
テレビ映像では伝えられないことがたくあることを実感した
そして現代社会における色々な意味での大きな転換点になった

1596年、京都南部で大地震がおこった
慶長伏見の大地震である
その2年後に秀吉が死に、時代が大きく変わっていった
わたしたちが学ぶべきことと忘れてはいけないこと
これからも大切にしていかなければならないだろう

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2008年1月13日 (日)

鹿男あをによし(予告)

Dscn1569 奈良国立博物館で、春日若宮のおん祭りの展示をおこなっている
始まったのが、鳥羽法皇崩御の直後という時期が興味深い
同時に、故・小野忠正さんの縄文時代コレクションと考古から佛教美術までの平常展示もおこなわれている
重要文化財や国宝が並び圧倒される中で、一遍聖絵を見つけ思わず目Dscn1574 を疑う
こんなにゆっくり間近で接することができるとは
場面は有名な備前福岡の市
弓を引く武者の姿が消されているところや、下駄屋、反物屋、米屋、猟師の物売りがはっきりとわかる
Dscn1565 これも今年の初めの良縁かと
ゼミの最初のイベントは、奈良博の見学とお水取りではどうだろうかDscn1566
今日は若草山の山焼き Dscn1567 Dscn1570 Dscn1573 Dscn1568

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2008年1月 8日 (火)

『新猿楽記』についてのメモ

年末に山崎と淀を経て石清水八幡宮までなんとか行けた
年明けに山を降りて鳥羽で五日間過ごした後で洛中に入る
寒梅研究会の後、嵯峨野帰りのマスターと本当に久しぶりの再会を祝い
Wくんと新田辺まで一緒に帰ってきた後『新猿楽記』について少し考える

予廿余季より以還、東西の二京を歴観るに、今夜猿楽見物許の見事なるは、古今に於て、未だ有らず

慶滋保胤の「池亭記」とうりふたつの書き出しをもつこの文章は、永承七年(一〇五二)頃、藤原明衡が書いた『新猿楽記』の冒頭である。この書は、西の京に住む右衛門尉一家が猿楽見物に来たという設定で、その三人の妻と十六人の娘とその夫または恋人、および九人の息子の容貌・性格や彼らの職業などをこと細かく記したものであるが、その描写から、通常の史料ではうかがい知れない平安時代後期の人々の臨場感あふれる姿や、現代社会にも通じるようなさまざまな芸能と職業が平安京の巷にあふれていたことを知ることができる。
そんな『新猿楽記』の主人公の四女の夫に次のような人物が登場する。

右馬寮の史生、七条以南の保長なり。名は金集、名は百成、鍛冶、鋳物師、ならびに銀金の細工なり。

馬寮とは、後に登場する西園寺氏とも関わるが、中央の政府が用いる馬の飼養を担当した役所で、軍事と交通にも関わったとも考えられている。保とは平安京の行政区画である「町」を四つ集めた単位で、保長とはその長官にあたる。従って「金集百成」とは、軍事や交通に関わった国の役所の役人であり、かつ七条の地区の代表でもある金属加工の職人だったということになる。しかも彼はかなり裕福な人物だったことが、その名前から推測される。
もちろんこのエピソードが当時の事実をそのまま伝えているものではないが、脇田晴子氏が言うように、手工業者と七条周辺との関わりは、多くの史料から知られる

興味を持ったのは、この一家の主人公が西京に家を持っていること
棚橋さんの意見ももっともだとは思うが

またもや少し足踏み

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2008年1月 1日 (火)

謹賀新年

旧年中は一方ならぬご交誼をいただき心よりお礼申し上げます。
本年も一層のご指導、ご鞭撻を賜わりますよう何卒お願い申し上げます。
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