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2011年5月16日 (月)

下津(おりづ)について考える

15日の日曜日に愛知県の鈴木さんのプロデュースで稲沢市の下津遺跡の検討会がおこなわれました
豊富な資料と詳細な情報の検討による実に有意義な研究会でした
昨年度からおこなわれた下津遺跡(鎌倉街道遺跡群)の調査は、樋上さんお世話で、ちょうど室町時代の推定鎌倉街道がみつかった秋に見学することができました
下津が史料に登場するのは平安時代末期の源平記
その後、執権の北条氏や叡尊の記録、十六夜日記、そして足利尊氏と義満および滞在するなど
陣をおく場所であったり、宿であったり、城であったりと
古代末期から街道に沿った地域の重要拠点として存在していました

今回の調査によれば、その街道にあたる遺構が、調査区の東からみつかり、さらにその西からは溝で区画された館跡や、土師器が埋められた土坑や墓などが密集してみつかり
あらためてこの地の重要性が確認されたと思います
ただし、いくつかの検討しなければならない問題もあきらかとなり、それが今回の検討会につながったようです

最初の問題は遺跡の時期が新旧の2時期にわかれ、街道はその新の時期だけにあることです
ちなみに旧の時期は、おおむね13世紀おわりから14世紀はじめ、新の時期は15世紀後半代になります
この新の時期が推定されたのは、街道の盛り土の遺物の年代と、その下からみつかった井戸に捨てられていた宝篋印塔に応永25年の年号が刻まれていたことによります
この時、墓石である宝篋印塔を破壊して、さらに道を含めた土地区画を大きく改変する出来事があったことになります
新の時期の遺構のなかで、道と、溝で区画された館の範囲は、現在の地割りに一致し、字名とあわせて、そこから街道沿いにあった寺院や居館の姿が復原さえることになります
その様子は、野路岡田遺跡や堂山下遺跡のような連続する屋敷地をもった中世後半の集落の姿を示し
守護所がおかれたとすれば、六所宮を中心に展開する武蔵府中の姿とも重なるもの
ただしそれはあくまで15世紀後半の下津の姿だったことになります

それではそれ以前の下津はどのような姿をしていたのでしょうか
そこで登場したのが地形の詳細分析でした
自然堤防の切り合い関係と微細な地形分析により
現在遺跡の東を流れている青木川が古代まで遡らない可能性が説明され
中世のある時期は、現在の蛇池から西南へ流れていたことが指摘されました
また、遺跡の東には五日市場と九日市場の地名もあり
その頃はべつの流路がその東を南下していた可能性も報告されました

遺跡を見るときに、現在の風景に注意すると同時に
現在の地形もうたがってかからなければならないことは
備前福岡の市や静岡の元島遺跡や益田の遺跡など枚挙にいとまがありませんが
ここでもそれがあったわけです
旧時代の遺構をみれば、新の時代の道の下にも集落が東へ続いていたことがわかります
おそらく、旧の時代の下津は、鈴木さんが言うように現在の五日市場までつながっており
青木川は遺跡の西を南下していたのでしょう
そしてその時の道は
古い遺物の分布にしたがえば、遺跡の西よりを南北にはしって萱津と岐阜をつないでいたと思います
現在の地割りと字名が15世紀後半以降であれば
市名の起源についても検討する余地はありますが
あるいは鈴木さんの復原図のように、遺跡のさらに東をめぐって市を通過していたとも考えられます
叡尊や義満が滞在した下津の姿は
この姿だったと思います
詳しい検討はしていませんが
土師器がみられることも
京都との関係とあわせて伊勢御厨との関係も考えてみたいとはおもっています
それが15世紀の後半に現在の地割りに姿を変えます
街道が川に沿っているから
おそらく青木川が現在の流れになったのも同じころではないでしょうか
資料からその地形をみれば
あたかも灌漑にふさわしいところを流れているから
下津を拠点とした盟主が耕地開発をおこなった結果とも考えられます
そうすると
古い下津は「宿」
新しい下津は「城」
という異なった性格付けになるでしょうか
今後も注目させていただきたいと思います
鈴木さんをはじめとする関係者のみなさんに御礼を申し上げます

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