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2012年2月20日 (月)

広根遺跡についての覚え書き

兵庫県猪名川町の広根遺跡で、兵庫県考古博物館による現地説明会があった。
場所は、日生中央駅から南西へ約3キロ。のせでんの多田を北上した多田銀山の入口にあたる狭い盆地で、多田から北上した猪名川が、六石山の麓で西へ分岐し、さらにその先でいくつかの支流にわかれてさかのぼった先の猪渕川に接した緩やかな斜面に立地する。
みつかった遺跡は鎌倉時代と室町時代の集落で、主な遺構は、鎌倉時代が区画溝をもった70数平米の建物を中心とする複数の建物跡。室町時代は複数の石組遺構の密集と、その中央から見っかった焼土の溜まった方形竪穴。主な遺物は鎌倉時代が中国製の褐釉壺、室町時代は丹波の壺や備前のすり鉢。
あまり知られていない鎌倉時代の集落として、さらにここが源氏の故地に近い場所であることでも注目される発見である。
源氏といえば関東というイメージがあるが、鎌倉幕府をひらいた源頼朝の先祖は頼信・頼義・義家という河内源氏で、本拠は石川右岸の富田林通法寺にあった。源氏に東国武士のイメージができあがるのは、彼らが前九年・後三年の役で活躍したことによる。さらにこの頼朝の先祖をさかのぼるのが、清和天皇の曾孫にあたる平安時代中期の源満仲で、多田は、彼が本拠とした場所だった。したがって、この遺跡は、あの鎌倉時代をひらいた源氏の起源の本拠地のすぐ近くだったことになる。
今年は大河ドラマで清盛が注目されており、彼が本拠とした福原が脚光をあびているが、実は源氏の最初の本拠も、その近くにあったのである。
その満仲の事績を現在も遺しているのが多田院(多田神社)であるが、今回みつかった広根遺跡のある猪名川町の旧広根村は、その多田院の荘園にあたっている。したがって、広根遺跡から鎌倉時代の集落が見つかったということは、源氏の最初の本拠の姿にもかかわる重要な意味をもつ。
そんな広根遺跡でみつかった遺構と遺物は、13世紀と15・16世紀にわけられ、それぞれ異なった特徴を持っている。これは多田荘や多田院の歴史とどのように関わるのだろうか。
13世紀の情報は、70数平米の広さの建物と中国製の壺に特徴付けられるが、80平米以上の建物で白磁壺をもった集落が名主層に該当するため、この集落はそれに準じた人々の住まいであったと言える。
立地は、猪渕川に接する北向きの緩斜面で、猪渕川の先にはもうひとつの支流が東にながれており、調査地のすぐ東でそのふたつの河川が合流している。調査地の緩斜面は、江戸時代になって3段の階段状の造成工事がなされているが、その一部については中世にさかのぼる可能性があると言う。建物は調査区内で最も広い2番目に高い平坦面にあり、その東には猪渕川へ向かう溝がのび、さらに建物を囲む形の浅い溝もある。字名は向垣内であり、近世以前に館があった可能性をしめす。またこの調査地点に関わるもうひとつの字名は井谷口となっている。
調査地の山側になる南は、現在大きく開発されたニュータウンになっており、かつての地形はまったく失われているが、調査担当のI氏によれば、実は調査地の西が、かつては南北の広い谷になっており、この字名はそれにちなむものと言う。その結果建物の東の溝から谷までの距離はおよそ60mとなり、段差もふまえれば、建物の建っている範囲は、一辺40~50mの方形となる。
このような状況を、みつかった遺跡の情報と重ねれば、そこに鎌倉時代の武士館の立地に共通する特徴があることに気づく。
ふたつの河川が合流する場所を見下ろす緩斜面に立地する地形は、満仲の拠点である多田、河内源氏の拠点である通法寺、さらに清盛の拠点である福原とも共通する。谷が鎌倉時代の武士館と関係が深いのは、まさに鎌倉がその典型であるが、谷開発によって本拠を築いた当時の開発領主の特徴でもある。したがって、広根遺跡の鎌倉時代集落の立地は、限りなく鎌倉時代の武士居館の立地に近いと言える。これはみつかった建物と規模と遺物が名主に準じたクラスを示していることと符合する。
ところで、考古博物館の調べによれば、この井谷という地名は多田院の文書に人名として登場する。最初は1278年か79年頃とされる金堂上棟引馬注進状で、御家人分として井谷佐藤太入道が登場し、1316年の多田院堂供養指図で御家人の警固座として井谷の名がみえ、1368年の金堂供養御家人引馬注文で御家人として井谷佐藤太入道跡がでてくる。1368年の史料では「跡」となっているため、実際には13世紀終わり頃を中心に活躍した人物と推定でき、井谷氏が源満仲を起源とする多田院に属する御家人であり、年代も一致することから、今回の調査でみつかった館の主として、有力な候補と言える。
満仲は安和元年(968)に神託を受けて一族郎党とともに多田盆地に移住し、多田院を造営し開発をすすめ「多田新発意」と呼ばれた。今回見つかった鎌倉時代の館も、時代はさがるが、満仲同様に開発をすすめた人物の館と考えて良いだろう。
ただし満仲が多田を開発したのは、もうひとつ別の理由があったと言う。長暦元年(1037)に能勢郡から初めて銅が献上され、採銅所が設けられた。多田は後に銀山で有名になる鉱山地帯で、満仲はその権益を求めたとも言われている。そしてその特徴が、室町時代の広根遺跡を考えるヒントになると思われる。
満仲には三人の子供がおり、長子の頼光が摂津源氏となって多田を継ぎ、頼親は大和源氏、頼信は河内源氏となって多田を出た。しかし後の源氏の繁栄を築いたのは河内源氏で、頼朝の時代には多田蔵人行綱が鹿ヶ谷の陰謀を平清盛に密告する関係となる。その後、頼朝は行綱を勘当し、多田を源氏一族の大内惟義に預ける。ただし行綱の家人は元のごとく多田でふるまったと言う。しかし大内は承久の乱で京方について失脚し、多田は安貞2年(1228)以後、北条泰時をはじめとする得宗直轄領となる。
そんな多田の地に文永9年(1275)にやってきたのが西大寺流律宗の忍性だった。弘安2年(1279)には忍性による多田の新田開発の書状がのこり、先に推測した多田の開発が、この時期におこなわれていたことがわかる。ちょうど広根遺跡の鎌倉時代館の時期であり、井谷佐藤太の時期である。その結果、弘安4年(1281)には金堂復興の供養が叡尊を導師としておこなわれ、正和5年(1316)には三重塔供養がおこなれた。先の多田院堂供養指図はこれにあたる。
このように鎌倉北条氏の強い支援により開発がすすめられた多田に、なぜ忍性と叡尊が関わったのだろうか。西大寺流律宗の集団は、職人と流通経済に深く関わっていたことが良く知られている。その点で、多田院が律宗に変わり、多田に西大寺流律宗が関わったということは、多田に手工業生産か流通経済に関わる利点があったと考えられることになる。多田鉱山の開発は、安土・桃山時代以降が有名だが、さきにみたように、平安時代に記録がさかのぼり、鎌倉時代の操業もあったと言われる。本遺跡の鎌倉時代館の成立に関係があった可能性がある。
鎌倉幕府が幕を閉じると、それまでとは少し違うかたちで中央政権の多田への注目が高まる。平氏を出自とした北条氏と違い、源氏を出自とする足利政権は、代々の将軍が多田に深い信仰をよせ、1363年に近江の宇多源氏を祖とする京極出自の佐々木道誉が多田院の修造にあたった。そんな時代の広根村でみておくべきもうひとつ別の要素がある。
遺跡のすぐ北で、猪渕川の対岸に位置するのが最徳寺である。同寺は満仲の落胤厨子王丸を開基とも、満仲の後胤和泉小次郎親衡の子の一如尼と福寿丸が出家して多田の奥院と称して建保二年(1214)に成立したとも伝わる。その最徳寺は、中興の永明が14世紀終わり頃に改宗して真宗寺院となり、文安5年(1448)頃に蓮加に帰依している。そしてこの蓮如が、文明2年(1475)に越前の吉崎を脱出して西宮の名塩に入るときに、広根村に一時滞在したといわれる。蓮如は、その後京へ戻り、山科と大坂に本願寺を建立し、教団繁栄の基礎を築いた。この時に最徳寺がどのような役割を果たしたかは不明であるが、最徳寺が多田鉱山への道に面している点をふまえれば、その背景に金属産業があった可能性も予想してみたい。その視点でこの遺跡の室町時代をみれば、密集する石組遺構は、そこが日常生活とは明らかに異なる場所であったことを示す。具体的な遺物が出土していないためあくまで想像であるが、室町時代のこの場所は、最徳寺に関わる金属加工の工房だった可能性を指摘しておきたい。

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