一遍

2009年8月26日 (水)

六条道場紫台山河原院歓喜光寺

六条道場紫台山河原院歓喜光寺

一遍の弟子、聖戒にちなむ歓喜光寺は、源融の河原院の跡に造営された
最初は八幡にあったと言う
その後秀吉によって現在の錦天満宮に移される
すぐ西は中臣鎌足の とも言われる大宅廃寺
現在は大宅中学校の正門すぐに碑が建つ
坂を下りると奈良街道
向かいは勧修寺

from 鋤柄俊夫
同志社大学 文化情報学部
http://tsukigar.doshisha.ac.jp/

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2008年12月 6日 (土)

備後一宮

福山から福塩線に乗り換える
2両編成のワンマンカーは生徒と学生で一杯
芦田川を遡ると車窓を立派な家々が途切れなく通りすぎる
豊かな地域だと思う
新市までは約50分
備後一宮までは新市駅から徒歩約15分
一本道である
道路の右手に厳島神社の池が見えてきたら
その左手が備後一宮
バス通りから短い参道を抜けるとすぐに大鳥居が迎えてくれる
その先にあるのが随神門
神無月の集合を欠席した吉備津彦命を心配した大国主命が送った使者で
備後国は大祭の真っ最中で、歓待された使者はそのまま吉備津彦命の親衛となったという
この門をくぐると左手に広場とその中に公孫樹の巨木が
この広場は11月23日前後におこなわれる中国地域屈指の市立大祭の会場ともなる
一宮があって新市である
備前一宮と備前福岡市の関係が思い浮かぶ
突き当たりの石段をあがって振り向くと視界がひろがり、西日に照らされた門前の風景が見えてくる
ふたつめの随神門をくぐり
左右に分かれた石段を登ると
拝殿の向こうに大きな社殿が姿を現す

備後一宮である
裏手の掲示板によれば、2002年に12世紀代の土器や青磁や白磁などの中国陶磁器が背後の山から見つかったという
鳥居の前を南北に街道がはしる
ちょうど現在のバス通りと平行してその西をはしる
また備後一宮の南に岡が続く
岩盤の露出した岡で、戦国時代の桜山城跡と亀寿山城跡推定されている
室町時代の境内図が残されており
前面の池を含めた門前の盛んな風景が再現されている
室町時代のこのあたりは、備後一宮を中心に街道を見下ろす形で城館がならぶ都市的な場と言って良いだろう
なにより新市である
この風景が鎌倉時代まで遡れば
一遍がここを訪れた時の世界が見えてくる
やはり一宮である

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2008年12月 5日 (金)

備前一宮

 一遍は、九州での遊行を終えると京都へ向かう。その途中で寄ったのが藤井の館と備前福岡の市である。
 このうち備前福岡の市はどの教科書にも載っているほど有名で、現在の場所も特定されている。JR赤穂線の長船駅の北にあたる吉井川沿いの集落である。
 この備前福岡の市の場面が描かれた理由は、藤井の館で、ある出来事があったことによる。したがって藤井の館の出来事が無ければ備前福岡市も無いことになる。その意味では備前福岡の市より藤井の館の方が、ずっと重要だと言うことになる。
 しかしこの藤井の政所がどこにあったのかは判然としていない。その館の主が吉備津宮の神主の子息だということで、およそその近くとイメージされている。ただし周知のように吉備津彦神社も吉備津神社も岡山駅から北西の位置にあって、長船から遠く離れている。
 さらに一遍は、1276年に筑前、1277年に大隅の正八幡宮、1278年に豊後府内 大友能直孫の頼泰を経て、1278年の伊予の後、1278年に安芸厳島そして藤井の政所に着いているので、陸路より海路をとった可能性が高い。
 そこで海側で藤井の地名から推定されているのが、宿毛の西大寺一宮安仁神社である。その名の通りに式内社の備前国一宮である。現在は片田舎だが初詣は大いに賑わうと言う。
 場所は赤穂線西大寺から南東へ約8キロ。西大寺駅から南東へ吉井川を渡り、神崎山から東へ折れ、牛窓へ向かう途中をさらに南下した先に鎮座する。
 牛窓へ向かう県道を宿毛で南へ曲がると、左手に低い丘陵が見える。その先は水田の広がる平坦地で、またその先に丘陵がのびる。
 安仁神社は、このふたつの丘陵にはさまれた水田の東の奥に位置する。マクロ的に見れば、西へ向かってのびるふたつの丘陵に挟まれた平坦面の奥に鎮座しているということになる。
 こまかく言うと、ふたつの丘陵のうちで、南側の丘陵の支脈と思われる尾根の先端を利用して営まれているが、元々はその奥の山頂にあったという。
 そしてそこから西をみれば、その先に入り江の水面が見える。吉井川の河口に最も近い水門湾の入り江である。言い方を変えると、吉井川の河口港(神崎川の大物浜のような)を押さえていたのが、安仁神社だったということになる。
 したがって、一遍が海路を吉備へ向かったとき吉井川を遡る前に立ち寄るとした最もふさわしい場所と言えよう。
 西大寺へ戻る途中に観音院に寄る。創建は古代に遡り、さらに後鳥羽も関わっているという。千手観音を本尊とする観音霊場である。仁王門は西を向くが、本堂は吉井川を向く。明らかに吉井川の水上交通を意識した寺である。実際にその北の町並みは西大寺が港だった頃の面影を強く残しており、港の象徴とされる浜倉の榎の巨木が、その中に立つ。
 一遍の時代にもおおいに繁栄していたことが予想されるが、絵巻には登場しない。見えない過去は多い。

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2008年11月29日 (土)

片瀬浜

片瀬は輝くばかりの陽の光
一遍は、片瀬の館と地蔵堂にその足跡を残している
湘南江の島のモノレール駅を出たところが江ノ島道
交差する県道を渡りまっすぐ行けば江ノ島
一遍の地蔵堂へは逆にもどる
紹介にしたがい公民館と八百屋さんの間の小路を行くと
県道へ出る直前に小さな公園があり
一遍の地蔵堂を示す標柱が立っている
まずはここから

遊行寺での約束までまだ少し時間があったため
公民館と一緒にある図書室へ行って資料を調べる
係の人に相談するとうってつけのマップがあり
それを手がかりにして江ノ島みちを北へ
片瀬港をめざす

現在の江ノ島道は、普通車がやっと対向できるほどの幅
途中に元禄頃の事跡があるという藤沢から江の島をつなぐ「江の島弁財天道標」を見かける
鎌倉に続く東の山塊の麓をほぼ同じ標高でくねくねと続く
湘南江の島駅のすぐ北にあるのが常立寺
元は真言寺院の利生寺があったという
「竜の口」と呼ばれた刑場の地で、大庭景親、和田義盛、法条時行らが処刑された
公民館の先の右手にあるのが密蔵寺
徳治元年(1306)に没した有弁を開山とする

この密蔵寺の道をはさんだ西側は一段低くなった空き地になっており
その脇の路地を県道へ向かって降りていくと下諏訪神社が鎮座している
年表によれば8世紀に信濃国から勧請されたと伝え
下社は弘仁年間、上社は天長年間に遷座と言う
神紋は諏訪大社のご神木をあらわしている
路地を一筋北へずらして公園を抜けて江の島道へもどると
東の長い石段の上に上諏訪神社がみえる
大鯨の伝説をもつ浪合をゆるやかに右にカーブしながら過ぎると泉蔵寺

片瀬小学校をすぎると岩谷不動入口の標柱がたつ
その先の一体は殿山と呼ばれ
館跡と推定され
後北条の時代には大船の玉縄城の砦の役割も果たしていたと言う
道は、この先から少し下りになり
その先が境川にかかる新屋敷橋との交差点になる
説明ではこの橋の上流あたりが片瀬港で
境川はこの下流でおおきく川筋を変えていたと言う
片瀬の館は
この港を見下ろす周辺だろうか

江ノ電で藤沢へ
遊行寺は藤沢駅から北へ10分ほど
北東から来た東海道が
境川を渡ったところで北西に曲がる角にある
絶好のロケーションである
なお江戸時代の藤沢宿はここから少し西へ行ったところ
ちなみに遊行寺のすぐ近くに諏訪社が鎮座している

一遍はなぜ片瀬に滞在したのだろうか
一遍は片瀬の誰を頼ったのだろう
江の島なのだろうか

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2008年11月28日 (金)

石浜神社

東京メトロを南千住で降りる
南口の大きな貨物線の踏切を越えると目の前の交差点を横切るのが明治通り
地図を頭に思い浮かべながら左折
バス停は泪橋
どこかで聞いたことがあると思いながら西へ進む
大きな清掃の工場があったガスタンクが見える
その先が白髭橋のかかる隅田川
花火で有名な身近なイメージの隅田川だが、畿内なら宇治川に匹敵する大河川である
石浜神社はその手前に鎮座する

聖武天皇の勅願により
泰衡攻撃のため、ここで頼朝が伊勢神を祈ったことに関わる
祭神は天照大神と豊受姫神
室町時代は武蔵千葉氏の城がおかれた
確かに常陸、奥州から武蔵への入口である
一遍は江刺と平泉からの帰りに
親鸞の影響下にあった常陸で溝から銭を掘り出した後
43歳で(1281 弘安 4)ここに来ている
対岸が向島で、その先の巨大河川、荒川を越えるとお花茶屋の葛西城
典型的な水上交通と陸上交通の結節点である

駅に戻る途中、地図でみつけた平賀源内墓に立ち寄る
明治通りに面して石碑が立ち
その奥の一角に墓がある
門は閉まっていて入れなかったが国の史跡となっている
讃岐の生まれといえば空海と同じかと不思議な縁に気づく

明治通りに戻り泪橋の字をもう一度見て
そうか、あしたのジョーかと思い出す
左は言問橋から浅草
色々なことが一気に頭を駆け巡る
泪橋はどこだろうかと探す時間も無いままに南千住駅へ
北は日光街道へつながる
乗った電車は常磐線
至るところに北関東の姿が見える

一遍にならい東京から片瀬に向かう
順番では長後(ながさこ)から巨袋坂だが時間の都合で大船からモノレールに乗る
一遍は石浜から海岸沿いではなく
豊島、調布、高井戸、大和など陸路の武蔵を歩いていったことになる
天気はすっかり晴れ
リスモを起動しサザンを選ぶ
片瀬山をすぎると湘南の海が見える

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2008年11月27日 (木)

阿武隈川と渡良瀬川

会津若松も郡山もどうしてSuicaが使えないのだろうかと訝しみながら白河へ向かう
白河へは東北本線で約30分
広い平坦な台地が続く
こんな風景のどこに関が作られたのだろうと思いながら白河に近づく頃山が目に入る
白河関は白河駅から福島交通のバスで約30分
城下町の姿をそのまま残す古い町並みを抜けると
ほぼ旧東山道に沿って低い山並みの間の谷を南下する
バス停の名前に「宿」が着くとまもなく関

白河関は古代東山道の陸奥国入口に置かれた関所
関としての意識は古墳時代にさかのぼるとされ
公式には9世紀の太政官符で俘囚の出入りと商人の官納物買取りを防ぐためとする
この時、同時にいわき市とされる菊田関(勿来関)がみえ
(日本海側は山形と新潟の間の念珠(ねず)関)
取り締まりを長門国関並にすると申請されているため
都から見たときの東西の境界意識がわかる
なお南北朝期の「河海抄」は、平安初期に蝦夷に対する備えとする
また鎌倉時代には関としての昨日は失われていたとも言われる

昭和30年代に発掘調査がおこなわれ
二重の柵木に囲まれた平安時代の竪穴住居群ほか掘立柱建物跡群・鍛冶工房跡などが発見された
独立丘陵を改造して利用したもので
北に白河神社が鎮座し、南に大規模な壕を巡らせた館をもつ
昨日の陣が峯城を彷彿させる

現在の場所は阿武隈川の支流にあたる社(やしろ)川の最上流部で
すぐ南が栃木県境
国道とも東北本線ともおおきくずれた東に位置する
どうも土地勘が無いのでよくわからなかったが
阿武隈川である
仙台から延々と福島と郡山を経由して南下して遡ってきた阿武隈川の終点が白河で
そのさらに支流の終点が白河の関なのである
この川より北は奥州で
この川と分かれて栃木へ入ると那珂川が南東に流れて茨城の水戸で太平洋につながる
さらに那珂川からまた山を越えて宇都宮に入れば鬼怒川で
そこから先は坂東の広い台地が広がり、利根川、荒川が南をめざす
白河の関は阿武隈川に代表される奥羽水路と
那珂川鬼怒川に代表される北関東水路の
おおいなる分水嶺ということになる
阿武隈川を遡ってきた人々は
ここで奥州との別れを告げ
鬼怒川と那珂川を遡ってきた人々は
ここを過ぎることで別の世界に入ることを実感する

ちなみに一遍は江刺へ向かう途中
栃木の小野寺から42歳で(1280 弘安 3)ここを通過している
天気予報が半分あたり
白河を出る直前に雨が降り始めた

両毛線の岩舟は栃木から二駅西の下野国
次の駅は佐野
黒い土と広い台地
いかにも武士がいそう
駅の北に大きな岩山がある
タクシーの運転手さんと話しをしていたら
ここで映画のロケがたびたび行われているという
一遍が立ち寄った小野寺は大慈寺とされるが
最寄りの駅はこの岩舟で、公共の交通機関は無い
ただし下野の名刹で
駅前のタクシーは慣れた道を走り出す
岩舟から東北道を越えて北西へ約7キロ
マクロ的に見ると
下野の台地の北の端で
この寺の北の山の先は日光の男体山
そのずっと先が猪苗代湖と磐梯山
奥羽山脈の最南端である

行基の開山とされる大慈寺は
延暦13年(794)に都賀郡に産まれた円仁(慈覚大師)が
9歳から15歳まで修行した寺として有名で
境内は円仁にちなむモミュメントが多い
最澄の弟子として名高い円仁が東国出身とは気づかなかった
以前から森先生が東国の古代の知識人層に注目していたことを思い出す
残念ながら一遍にちなんだものは見あたらない
だが、一通りまわって境内を出たところで出会ったのが「村檜(むらひ)神社」
7世紀に遡り熊野神社と日枝大神(大山咋神)を迎え
祭神は誉田別(ほんだわけ)命
式内社で下野三之宮
室町時代の三間社春日造は重要文化財
誉田別命と言えば石清水八幡宮である
つまり太平洋の熊野社と日本海の日吉社と源氏の八幡宮と
諏訪はないけれど会津同様にすべてが揃っている最強の神社である
神殿の背後の斜面には「石清水」が湧きだしていた

さらにこの神社の正面はそのまま現在の道につながっている
視野を広げれば
背後に山を背負い
左右にその続きの尾根が延びる
平地はその間を三角形に広がっていく
その中央左手を川が南下する
これまで何度も見てきたような典型的な開発領主型の風景である
おそらく、この神社の真下には領主の館がおかれ
街道にそって集落がみられたと思われる

この川はやがて渡良瀬川と合流し
その先が古河(公方のおかれた)である
非常に面白いのは
東西に流れる渡良瀬川や利根川に対して
奥羽山脈の谷谷から流れる川を単位に
東から栃木、小野寺、佐野(鋳物師)、足利、世良田とならぶ
まるで東国武士の拠点の団地のよう

九州の大友や信濃の伴野の市庭と小田切里や父を小笠原信濃守長清とする大井太郎朝光もそうだが
一遍は地域の拠点を選んで遊行をおこない
ここも同様であったことがわかる
さらにここは一遍の遊行地のもうひとつの特徴である宮と宮前も含んでいた
ゆえ
ここもまた大いに意味のある景観だったことになる

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2008年9月16日 (火)

一遍の軌跡(稿)

歳 西暦 年号 年 月 日 国   
1 1239 延応 1   伊予 宝巌寺 誕生 松山市
2 1240 仁治 1   伊予   
3 1241 仁治 2   伊予   
4 1242 仁治 3   伊予   
5 1243 寛元 1   伊予   
6 1244 寛元 2   伊予   
7 1245 寛元 3   伊予   
8 1246 寛元 4   伊予   
9 1247 宝治 1   伊予   
10 1248 宝治 2   伊予  母死
11 1249 建長 1   伊予   
12 1250 建長 2   伊予   
13 1251 建長 3 春  筑前 大宰府 聖達上人のもとへ 太宰府
14 1252 建長 4   肥前 清水 華台上人
15 1253 建長 5   肥前 清水 華台上人
16 1254 建長 6 春  筑前 大宰府 聖達上人のもとへ 太宰府
17 1255 建長 7   筑前 大宰府  太宰府
18 1256 康元 1   筑前 大宰府  太宰府
19 1257 正嘉 1   筑前 大宰府  太宰府
20 1258 正嘉 2   筑前 大宰府  太宰府
21 1259 正元 1   筑前 大宰府  太宰府
22 1260 文応 1   筑前 大宰府  太宰府
23 1261 弘長 1   筑前 大宰府  太宰府
24 1262 弘長 2   筑前 大宰府  太宰府
25 1263 弘長 3 5 24 伊予  父死により帰郷
26 1264 文永 1      
27 1265 文永 2      
28 1266 文永 3      
29 1267 文永 4      
30 1268 文永 5      
31 1269 文永 6      
32 1270 文永 7      
33 1271 文永 8 春  信濃 善光寺 二河白道
33 1271 文永 8 秋  伊予 窪寺 松門柴戸の閉室
34 1272 文永 9      
35 1273 文永 10 7  伊予 菅生岩屋 観音影現の霊地で仙人練行の古跡
36 1274 文永 11 2 8 伊予  同行三人で出立
36 1274 文永 11 2 13・14 伊予 桜井 聖戒と分かれる 今治
36 1274 文永 11   摂津 四天王寺 
36 1274 文永 11   紀伊 高野山 
36 1274 文永 11 6 13 紀伊 熊野新宮 念仏札を配ることを決める
36 1274 文永 11 秋  京・西海道   
37 1275 建治 1 春  京・西海道   
37 1275 建治 1 秋  伊予  帰着
38 1276 建治 2   筑前 武士の館 
39 1277 建治 3   大隅 正八幡宮 
40 1278 弘安 1 春?  豊後 府内 大友能直孫の頼泰が帰依
40 1278 弘安 1 夏  伊予   
40 1278 弘安 1 秋  安芸厳島 厳島 
40 1278 弘安 1 冬  備前 藤井・福岡 政所、家主は吉備津宮の神主の子
41 1279 弘安 2 春  京都 因幡堂 
41 1279 弘安 2 8  信濃 善光寺 
41 1279 弘安 2   信濃 佐久郡伴野 市庭の在家
41 1279 弘安 2   信濃 小田切里 ある武士の館
41 1279 弘安 2 冬  信濃 佐久 大井太郎朝光、父は小笠原信濃守長清
41 1279 弘安 2   下野 小野寺 
42 1280 弘安 3   陸奥 白河関 
42 1280 弘安 3   陸奥 江刺 
42 1280 弘安 3   陸奥 松島 
43 1281 弘安 4   陸奥 平泉 
43 1281 弘安 4   常陸  溝から銭を掘り出す
43 1281 弘安 4   武蔵 石浜  東京都台東区浅草石浜町
44 1282 弘安 5 春  相模 ながさこ  藤沢市長後
44 1282 弘安 5 3 1 相模 こぶくろ坂 
44 1282 弘安 5 3 2 相模 片瀬館御堂  藤沢市片瀬
44 1282 弘安 5 7 16 伊豆 三島 
44 1282 弘安 5   駿河 蒲原 
45 1283 弘安 6   尾張 甚目寺・萱津 
46 1284 弘安 7   近江 草津 
46 1284 弘安 7   近江 関寺 
46 1284 弘安 7 閏4 16 山城 四条京極釈迦堂 
46 1284 弘安 7   山城 因幡堂 
46 1284 弘安 7   山城 三条悲田院 
46 1284 弘安 7   山城 蓮光院 
46 1284 弘安 7   山城 雲居寺 
46 1284 弘安 7   山城 六波羅蜜寺 
46 1284 弘安 7   山城 市屋道場 
46 1284 弘安 7 5 22 山城 桂 
46 1284 弘安 7 秋  丹波 篠村 
46 1284 弘安 7   丹波 穴生寺 
47 1285 弘安 8 5 上旬 丹後 久美浜 
47 1285 弘安 8   但馬 くみ 
47 1285 弘安 8 11  因幡 霜月騒動 
47 1285 弘安 8   伯耆 おほさか 
47 1285 弘安 8   美作 一宮 
47 1285 弘安 8   美作 かなもり 
48 1286 弘安 9   摂津 天王寺 
48 1286 弘安 9   摂津 住吉 
48 1286 弘安 9   和泉   
48 1286 弘安 9   河内 太子御堂 
48 1286 弘安 9   大和 当麻寺 
48 1286 弘安 9 冬  山城 八幡宮 
48 1286 弘安 9   摂津 天王寺 
48 1286 弘安 9   尼崎   
48 1286 弘安 9   播磨 印南野教信寺 
49 1287 弘安 10 春  播磨 書写山 
49 1287 弘安 10 春  備中 軽部宿 十二道具の持文
49 1287 弘安 10   備後 一宮 
49 1287 弘安 10 秋  安芸 厳島 
50 1288 正応 1   伊予 菅生岩屋 
50 1288 正応 1   伊予 繁多寺 
50 1288 正応 1 12 16 伊予 三島 翌年の桜会
51 1289 正応 2   讃岐 善通寺 
51 1289 正応 2   讃岐 曼陀羅寺 
51 1289 正応 2   阿波 大鳥里河辺 
51 1289 正応 2 7 はじめ 淡路 福良 
51 1289 正応 2   淡路 大国魂神社  兵庫県三原郡三原町
51 1289 正応 2   淡路 北野天神  兵庫県津名郡津名町志筑
51 1289 正応 2 7 18 播磨 明石浦 
51 1289 正応 2 8 1 播磨 兵庫島 
51 1289 正応 2 8 23 播磨 兵庫観音堂 没

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2008年8月29日 (金)

河野氏の館

雷雨で豪雨だった
松山駅から出てくる高校生の中には
傘を持たない者もいるから
30分ほど前には降っていなかったのだろう
東海から関東では大きな被害が出ているとのことだが
広島でも警報がでていたので、その余波だろうか

愛媛県立歴史文化博物館は
宇和島に近い卯之町にある
松山から特急で約1時間
藤原純友が拠点とした、瀬戸内航路の西端にあたる
豊後水道と周防灘を南から遮断し
さらに国東へのアプローチも可能とする場所である
いしづち1号が発車する頃には雨はおさまってきたが
相変わらず雲は厚い

純友が本拠にしたと伝える日振島は
宇和島の西方沖にあたるが
卯之町が見下ろす深浦湾がひらく南西方向の先にもあたる
天気が良ければ見えるのだろうか
列車は伊予市から海岸線を離れ
佐田岬半島の付け根をおおきくまわりこんで
大洲市を経て八幡浜市へ向かう
八幡浜は佐田岬半島の付け根にある港町
詳しく調べてはいないが
当然宇佐と石清水のつながりがある土地だろう
内子町に近づく頃には陽が射してきた
やれやれ

卯之町に着いたら強い陽射しが戻ってきた
歴史文化博物館までは約2キロ
ずっと雨で歩けなかったので町並みを見ながら歩く
展示は旧石器時代から昭和まで
ひとつひとつがしっかりつくられていて
中身が濃く大変勉強になった
はやりの奇抜な仕掛けは無いが
落ち着いてしっかり見られる良い博物館だと思う

一遍の一族にあたる河野氏は
元もと松山市北条河野を本拠とする在地領主で
高山(こやま)川と河野川が瀬戸内海に注ぐ平地を開発し
居館はこれらの川にはさまれた丘陵の麓にあったとされている
一遍の祖父にあたる通信は源平の内乱期に頼朝にしたがった御家人で
1203年の吾妻鏡によれば頼家から伊予支配の保証を受け
鎌倉にも屋敷を持っていたという
思わず鎌倉科研を思い出し、どこだろうかと思いをめぐらす
当時の伊予国守護は宇都宮と佐々木
地頭クラスとして河野と忽那(くつな)がいたという

その後河野氏は、周知のように承久の変で後鳥羽側に付き
通信は江刺へ追われ、北上市稲瀬町水越の聖塚がその墓と言われる
一遍には武士的な雰囲気が強いという
一遍が遊行を始めるきっかけとなったのは河野氏の後継をめぐるものともいう
一遍の生家は後に河野氏の城館となる湯築城のすぐ脇にあたる
一遍が飛び込んだのは、新しい時代の主人公となった武士層だという
その意味でも、一遍の風景は新しく生まれ始めた都市の風景だと思う

元寇の時、河野通有が有名な蒙古襲来絵詞に登場する
彼はその功により、蒙古軍冑鉢と蒙古軍弓矢を大山祇神社へ奉納している
その弓は樺材の両面に鯨の髭を付けたもので
高麗か南宋の兵が使用した可能性もあるという

南北朝期、河野通盛は尊氏につき、河野氏から出た土居と得納が
忽那と大祝とともに南朝の懐良親王についたという
河野氏の城館となった湯築城はこれにより1342年に攻撃されている
当然、その周囲には河野氏の寺社や町があっただろう
その風景もまた考えてみたい課題である

室町時代、伊予国守護となった河野氏に対し
讃岐から細川が攻撃を繰り返し
一方で西伊予は宇都宮氏と西園寺氏と摂津氏、御荘氏などが支配していた
讃岐に加えて、時代は異なるが、西園寺が再び登場する
そして河野氏の重心だった来島村上氏が力を強めるのは
その直後の戦国時代に入る頃からとなる
石清水の姿はあまり見えなかったが
純友とあわせて西部瀬戸内の歴史はダイナミックで面白い

由利島(松山市中島町)の土師器土釜は防長系の足釜
長楽寺の銭
今治の片山内福間遺跡をもとに中世の家が作られていて
西条市の土居構をもとに中世の屋敷模型がつくられいる
古墳時代は今治が中心だが
飛鳥時代以降は熟田津など松山が注目されるのは
国分寺は今治だが

駅前の寿司屋で504円のパックを買って松山行きの特急に乗る
考えてみたら昼食を摂ったのは火曜日の鴨島以来だった
松山に戻り河野氏の館を訪ねる
ここでは無理にでも湯築城とは言わない方が良いかもしれない
周知のように湯築城跡は
一乗谷朝倉氏遺跡に匹敵する戦国時代の重要遺跡である
ただし、湯築城には、一乗谷朝倉市館に無い特徴をもっている
14世紀代である
前にも書いたが、14世紀代とそれ以前の拠点居館の姿は
実は全くわかっていない
それが一遍を追う理由なのだが

けれども湯築城と呼ばれる河野氏の居館跡には
それを解く鍵があると思う
ただしそれを知るためには松山という町をもっと知る必要がある
愛媛県の歴史文化博物館には
そのヒントが示されていて、それが良かったと思う
湯築城は14世紀代に造営されたというが
その痕跡はよくわかっていない
けれどもそのまわりを見渡せば

一乗谷朝倉氏遺跡と見まがうほどに見事に整備された湯築城跡から
中央の丘に登り展望台から海が見えるのを発見し?
北口へ降りる
隣に子規記念館がある
行き先は一遍の生家と言われる宝厳寺
正面の交差点を右に見ると長い石段の上に八幡造りの社殿が見える
その交差点渡ると目の前が道後温泉駅
駅まで行く手前を右に曲がり暫く行くまでもなく温泉本館が見えてくる
道後温泉へ行った人は気づいていると思うが
本館の裏はすぐ山である
もちろん開発によってたくさんのホテルが建ち並んでおりその地形は単純ではないが
少なくとも湯築城から本館へのすぐ右手は
いきなり山が迫っていると言って良い

一遍の生家と言われる宝巌寺は
その本館の手前の路を右へ曲がり、登り坂の途中をさらに左に曲がった先にある
この路を歩きながらよぎったのは
今週の月曜に歩いた鎌倉だった
そのつもりで見ないとわからないかもしれないが
宝巌寺への路は、その左右が尾根ではさまれた谷の路である
もし宝巌寺に一遍の生まれた館があったならば
まさにそこは谷戸
谷地の奥に築かれた館だったのである

北条にいた河野氏と
道後にいた河野氏の関係はよくわからないが
もし宝厳寺が一遍の生誕の地で父の通広の館であったならば
それはまさに韮山や鎌倉で見た風景に近く
湯築城はあたかも守山のようで
湯築の丘の麓に館が築かれ並んでいた風景は
13世紀の終わりに溯っても十分あることだと思う
それはあるいは益田の河口周辺のような
一遍は幼少の頃と青年時代
道後本館から数分の場所で生きていたのだろうか
もしそうならば羨ましい限りだが
ただ
聖絵にそれが登場しないのが気に掛かるが

河野氏は松山市北条を本拠としたという
しかもそこには河野川と高山川が流れているという
それならわかるかもしれないと思い
列車の窓から無謀にもカメラを構えてチャンスを狙う
下調べもせずにそんなことがわかるはずもない
けれども
地形を見ていて驚いた
京都ならば宇多から嵯峨野の北
九州ならば津屋崎あたり
そして四国ならば坂出周辺
あの雰囲気とそっくりである
わかる人はわかるだろう
わからない人は案内しよう
河野氏の河野氏たる所以がわかるような気がした

久しぶりにJR四国の特急に乗ったが
良かった
揺れのきついのはやむをえないが
とくに松山からの帰りはウッディーな感じがJR九州の新幹線を思わせるほど
伊予西条のあたりで見た絶妙の雲の具合は
重なり合う山々をそれぞれにきわだたせて
まるで山水画の風景の様
頑張れ四国

伊予のじゃこ天は確かに旨い
後から旨味がしみだしてきて
ついまた手が伸びてしまう
そしてそれを酒がさらにいざなう
雪雀の生はとくに良いと思う

来週末は再び江戸

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2008年8月28日 (木)

一遍への路

讃岐平野に恵みの雨が降る
網野善彦は一遍の行く先々に中世の都市的な場が見えたと言う
この言葉にいざなわれて、今年からしばらく一遍の見た風景を訪ねる旅を始める
昨日は大雨でそんな余裕は無かったが、一遍が旅の終わりに阿波から福良へ渡った時の阿波とはどのようなところだったのだろうか気になる

阿南のキヨスクで買った800円の傘をさして8時10分の観音寺行きに乗る
雲は低くたれこみ8月とは思えないような雨が降り続く
坂出を過ぎたあたりから空が明るくなり雨が弱まる
昨日までの風景と違い、山がはるか遠くにひき
広い平野が続く
多度津で乗り換えて善通寺に着いた時には、辛くも曇り空
条里にのってまっすぐ西南西にのびる路を善通寺へ向かう
市役所を過ぎ、四国学院大のキャンパスの向こうに讃岐宮の森が見えたら
その北が善通寺
突然右手に五重塔が見え
その手前に山門が登場する
正面に見えるが金堂で、市史によれば、石垣には元の礎石らしい石材が使われていると言う
西に空海の生誕地である邸宅跡に建つ御影堂をおく
背後には、讃岐に特有の神南備形をした五岳山が顔をのぞかせる
一遍の河野氏も、空海の佐伯氏も
瀬戸内海を北に望む、同じ風景の中で生まれた
善通寺の南の次の駅が金比羅で、そのままJRに乗っていけば高地に着く
佐伯氏は四国の南北幹線が瀬戸内に出る直前の場所をおさえていたことになるのだろうか

つい先日まで西園寺公経のことばかり考えていて
彼と讃岐との関係も頭に入っていたはずだが
ここへ来て、その具体的な所領が善通寺領の中の多度郡弘田郷(の一部)だったことに気づかされた
さらにその地の公文の息子だった信綱から請所の希望をうけたのが定家だったことも
公経と定家のこういった関係は信濃以外にもあったことになる
元々そこは国衙領で、讃岐の知行国主となった公経(または九条道家)が管理していたことになると言う
善通寺の門前は、その頃から栄えはじめたと言われるが
四国学院大学構内の調査では、中世は発見されていない
ただし、ここでも後嵯峨と亀山に会ったので
鎌倉時代のこの地が注目されていたことは間違いない
この地域の中世は金比羅までひろげてみる必要がありそう
多度津を出るとすぐに瀬戸内海の島々が眼前にひろがる
ここがそういった場所だということをようやく実感する

古代豪族越智氏の本拠だけあって
さすがに今治は越智名の看板が多い
ちなみに伊予国分寺と国分尼寺は、今治のすぐ南東におかれている
まさに古代の伊予の中心地である
しまなみ海道をとおり大山祇神社までバスでおよそ1時間
今治桟橋を経由して大島、伯方島の次が大三島
大島に入ると一般道を走る
途中、大島で特に大きな杉崎古墳まで徒歩5分という看板を見る
大島はさすがに大きく、島を思わせないほど
今治へは、以前に、森先生と網野先生のしまなみ海道のシンポジウムがあって来たことがあるが
島へ渡るのは初めてになる
確かに狭い水路を多くの船が行き来している
大島の村上水軍博物館が示すように水軍の本拠地で
たしか今治に一番近い来島がそれだったろうか

バスは大三島のインターでおりると、島の東の井口港から西の宮浦港まで島を横断する
大山祇神社は、その宮浦港を西に見て、島を少し登ったところにある
境内の南脇を小川が流れ、その先には岩盤の露出した山がそびえる
いかにもの立地である
大三島は西に開いたコ字の形をしているが
宮浦と大山祇神社は、そのコ字の奥に位置しており
さらに、このコ字の対岸には大崎上島が、ちょうど蓋をするように横たわっている
あらためて見れば、なるほど芸予諸島の中で
最も大切な場所というわけになる

この大山祇神社
伊予の一宮で、越智氏や河野氏が氏神として崇敬し
その後もとくに武士からの信仰が篤く
源義経が奉納した甲冑をはじめとして、多くの甲冑や刀剣、鏡など
国宝と重要文化財を有している
一遍の祖父の河野通信が納めた甲冑も展示されている
一遍は、東日本から畿内と中国をまわった後で、ここに立ち寄っている
弘安10年(1287)、一遍は播磨から備中に入り、3月に十二具の位置付けをおこなう
その後、備後一宮の吉備津神社、安芸一宮の厳島神社を経て
正応元年(1288)に伊予に帰った
遊行16年、齢は50だった
菅生の岩屋を巡礼し、繁多(はんた)寺(松山市畑寺)に三月参籠し
12月16日に伊予一宮の三島大明神に詣でている
3から4ヶ月滞在したらしい
翌二年(1289)の初夏に善通寺と曼荼羅寺(善通寺市吉原町)をおとずれて阿波に入る
吉野川を伝い6月1日に大鳥の里の河辺(徳島県麻植(おえ)郡鴨島町敷地河辺)では疲労と病が彼を激しく襲ったという
その後7月初めに淡路の福良に渡り三原町の二宮である大和大国魂神社と
津名町の北野天神(志筑神社)で結縁し
18日には先師と仰いだ教信所縁の播磨に渡る
51歳で臨終を迎えたのは8月23日の朝だった

50を迎えた夏に一遍の跡を追うことになったのは
まったく偶然ではあるが
26日の鴨島から始まり
善通寺を経て大三島へ、そして生家の宝巌寺をめざす路は
一遍の晩年の路を逆に辿ったことになった
親しくしている義満は51を区切りとし
それほど親しくはないが信長は49を区切りとしている
今治から松山への列車の時間があったので
今治城による
高松と同じ海城である
どうも歴史家はつまらない偶然を気にしてしまう癖があるようだ

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