遺跡の見方

2010年6月28日 (月)

いよいよ

暑い夏になりそうですね

カントクが言った
思えば
2008年の12月にあった1本の電話が物語りの始まりだった
なんどか脚本を書き直し
なんども本読みをして
あちこちの劇場を見て回り
立ち稽古とリハーサルを繰り返してきた
万全の準備はできないが
最善の準備はできたと思う
そうか
いよいよ幕が開くのか
確かに暑い夏になりそうだなあ
しっかり見ていてくれ

カントクにこたえた

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2010年4月30日 (金)

市と館刊行

Photo

集落遺跡の見方からふりかえって
中世都市研究会をひとつひとつ確認して
鎌倉時代と室町時代を比較しながら
中世社会とはなにか
中世都市とはなにか
市と館をキーワードに中世都市遺跡についていろいろ考えてみました

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2010年4月11日 (日)

英彦山かと思うような風景

英彦山の風景

from 鋤柄俊夫
同志社大学 文化情報学部
http://tsukigar.doshisha.ac.jp/

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2010年3月25日 (木)

Facusangi

百済寺
東近江市の東山麓に所在する有名な山岳寺院である
聖徳太子と渡来系氏族の関係を起源に伝える
戦国期には城塞化した坊が数百と連なり、フロイスはその見事さを、「地上の天国」と表現した
(百済寺という大学には、多数の独立した僧院および座敷と庭を備えた地上の天国である坊主の住屋が一千戸あった)
調査のお手伝いをすることになり能登川に着く
午後から雨が弱まると言われながら
空には思い雲が重なっている

史料は平安時代終わりに天台末となった時から始まる
天台末と言えば、近江関係では日吉神社や白山社が有名だが、近江だけではなく、大山寺も、そういえば大宰府の宝満山も

その後の百済寺と言えば
なんといっても現在も良くその姿を残している雛壇型の多くの坊跡が特徴で
注目はどうしても戦国時代に集まる
けれども史料をたどれば鎌倉時代も大いに興味深い存在だったことがわかる
天福元年(1233)法性寺の座主、慈賢が自寺を離れ、花樹に彩られた庭園のある百済寺に脱出(明月記)。
天福2年には、前の天台座主良快が、延暦寺の無動寺末だった百済寺を慈源に譲る。
この良快は九条兼実の子で、慈源は兼実の孫の九条道家の子だという。
兼実は法性寺殿と呼ばれた人物だが、それを含めれば、四代にわたって九条家と関係をもっていた寺だったことになる
言うまでもなく、九条兼実も道家も鎌倉幕府と深い関係を持っていた人物で
道家がひらいた東福寺は、石鍋によっても、博多と京都と鎌倉をつなぐ大きな存在だったことがわかっている

その点で、源平盛衰記にひかれる木曾義仲にちなむエピソードが、かならずしも荒唐無稽なものではなかった可能性を想像させてくれる背景である

敏満寺や京極の上平寺城にも代表される北近江の城塞化された戦国期の寺院については、勝山の平泉寺や根来寺と比較され、してきた

ただしこの数年、笠置寺や成相寺などに関わってくる中で、雛壇型に多くの僧坊がならぶ北近江の城塞化された寺院には
その背景に、大宰府の原山や宝満寺にあったような中世前期の山岳寺院の姿があったのではないかと思うようになってきた

その目で百済寺を見れば
本坊をとりまく坊跡には、明らかに異なったふたつの姿のものが見られる
そしてこの違いは、金胎寺や笠置や成相寺や三縁寺でみられたふたつの姿を想像させるものでもある
鎌倉も一区切り、昭和堂も一段落、今出川はこれからだが、何度かこの大寺に通い、敏満寺につながる新たな学びを得たいと思っている

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2010年3月23日 (火)

北上川遡上

北上川を遡る

たしか昨年だったと思うが
会津坂下町の帰りに白河の関へ行った
その時、阿武隈川の本当の意味を初めて体感したのだが
今回は同じ意味での体感を初めて北上川でした

平泉へは何度も行っていて
平泉と北上川の関係はわかっていたつもりだった
けれども平泉より北の北上川についてはなにもわかっていなかった

平泉より北の奥州もまた
平泉に匹敵する豊かな土地がひろがっていた

江刺水沢でおりて豊田館へ向かい
えさし郷土文化館で豊富な資料を見て胆沢城へ
なによりも平地の広さに圧倒された

大和川に水をあつめる奈良盆地と同じ規模ではないだろうか
会津盆地のほんの一角を見た時も同じ感覚を持った
奥州の人は雄大だから
会津盆地に分布する館の距離を近いと言うが
奈良盆地のイメージではいたって普通
北上川の平地はとにかく広い
それはおそらく古代の中世の畿内の人間の想像を超えるものだったのではないだろうか

そんな広い北上川の平地の中で
豊田館はいわば会津坂下の陣が峰城のような姿を見せていた
あるいは、青森の中里城のような平安時代の防御性集落に似ていると言った方がいいのだろうか

そして胆沢城は
姿はともかく立地は柳ノ御所遺跡と瓜二つ
平泉が担ったものの意味が少しだけ見えた気がした
奥州市の埋蔵文化財センターの充実した展示に感動しながら
その感覚は志波城に立ったときにさらに強まった
やはり非常に中身の濃い盛岡市遺跡の学び館の展示を見ながら
日本列島と東アジアを考える大きなヒントがここにあることが

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2010年3月11日 (木)

丹後へ

京都府の調査で丹後へ
峰山の縁城寺から三縁寺へ
そして雪の宮津へ

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2010年2月27日 (土)

熊本市二本木遺跡群

インターネットのニュースで熊本市の二本木遺跡群で
鎌倉時代の墓が見つかり、高麗青磁の碗が出土したことと
27日に現地説明会が行われるとの報道があった

この数年、中世前期都市をおいかけていて
2年前には、一遍に導かれながら、鹿児島まで行ってきた
その時に、阿蘇品氏や菊地氏で有名な熊本も見てみたいと思っていたが
なかなかストレートにヒットする遺跡がわからず逡巡していた
だから、この報道を見たときは
ちょうど数年前に信濃善光寺の門前の鎌倉時代の溝の発見を
偶然地元のテレビニュースで知って訪れた時と同じような運命を感じた
高麗青磁や墓にとどまらない、大規模な都市遺跡の予感があった
思わず
上京区とJTBの会議が終わった26日の18時に新幹線に飛び乗って熊本へ向かった

26日は前線の影響で全国的に雨だったが
27日の熊本は朝から気持ちの良い太陽が顔を出し気温もコート無しでゆっくりできるくらい
場所を詳しく調べていなかったことを後悔しながら
駅の改札で西側へ抜ける道を聞いて地下道をくぐって新幹線側の工事エリアに出る
すぐに春日小学校が見え、このあたりかとおもって見回すと
説明会の看板の設置作業をみかける
聞くと新幹線の高架の近くが事務所だと言う
まだ時間が早かったから、すぐ西にある丘(万日山)から全景を俯瞰しよう思い
南へ向かう

前夜に地図を見ていて
熊本はみごとな港湾都市だと思っていたが
その港湾都市の背後にあるのがこの丘で、現在は山頂近くに墓地が広がっている
後で聞けば、予想通りに古墳時代後期以降連続した墓域であるという

肥後国の国府は
現在の水前寺にある国分寺周辺が想定地とされていたが
多くの調査によってもその痕跡はみつからず
現在は、二本木遺跡周辺の府中地区が国府の場所でないかと考えられている
有明海の沿岸部にあって、現在の川尻付近で緑川と合流して有明海に注いでいた白川に沿って形成された微高地上である
さらにそのすぐ東を南北の陸上路が走っている
中世前期の港湾都市の立地として申し分無い

説明会会場に戻ったのはまだ始まる時間より早かったが
一番乗り
奈良県から来たとの記帳をした後、県の担当のOさん挨拶をして
遺物をみせてもらい始めた時
声をかけられた
旧知の熊本市のAさんだった
1995年の夏に、福島のIさんと神奈川のMさんと当時千葉にいたTさんと南九州を巡った時に会って以来である
二本木遺跡について急遽調べたときに
調査の背景として、新幹線開業にともなう開発で、市と県が調査をしていることがわかり
もしかしたら知り合いにあえるかもしれないとも思っていたが
懐かしい再会だった

市の担当として実際に調査をおこなっているAさんから
詳しい話を聞き
ここだ中世の九州を代表する港湾都市遺跡であることをあらためて実感
さらにAさんによれば
水陸交通と、二本木遺跡の西に鎮座する平安時代の山岳信仰寺院である
池辺寺(ちへんじ)も大きな役割をになっていたという
万之瀬川と同様に金峰山も背後にひかえる

一方、熊本城の西には鎌倉時代にさかのぼる藤崎八幡もあった
社伝によれば、宮は承平5年(935)に平将門追討の勅願により、山城国石清水八幡宮を飽田(あきた)郡宮崎(みやさき)庄茶臼山に勧請したのに始まるという
以来九州五所別宮のひとつとし朝廷や武士の尊崇をうけた。
万寿年間(11世紀初め)、長承年間(12世紀前半)、寛喜二年(13世紀前半)、建長年間(13世紀半ば)、嘉元年間(14世紀初め)などに火災・暴風の記録がある
が正平12年(1357)頃から菊池武光が支援し文明年間に完成
大永2年(1522)から鹿子木親員(寂心)が造営

二本木遺跡を俯瞰する北の小丘には北岡神社が鎮座する
祭神は素盞嗚命・稲田姫命で、もと祇園社で、承平4年(934)に肥後国司藤原保昌が府中鎮護のため山城国祇園社を湯ノ原に勧請、さらに天元2年(979)に祇園山(花岡山)を経て、正保4年(1647)に「神主くじ取り」で北岡山に移された
また藤崎宮と並ぶ社格を有した

大宰府の都市の背後にあったような天台系修験道寺院がその西にあり
その脇には二本木遺跡で白川と分流する坪井川が流れ
その先にも湊があったと言う
そして九州五所別宮のひとつの藤崎八旛宮は瀬戸内海航路をおさえていた八幡宮ネットワークの基点だった
さらに祇園社のネットワークもあったのだろうか
説明をしてくれたAさんに感謝

大友や武藤や島津といった名の知れた支配者が一見すると見当たらない場所で
これだけの都市が運営された原動力を解き明かし
中世前期の社会を説明する
きわめて重要な遺跡であることに間違いない
方形竪穴の倉庫群もみつかっているという
新幹線の開業に向けて調査はまだこれからも続く
当分目が離せない

熊本では、だいぶ以前に玉名市の吉丸前遺跡と須屋の舟入遺跡の調査に関わった
二本木口徒歩5分の埼陽軒はさっぱりして美味しいラーメンだった
博多から1時間少し
できるかぎり通いたい

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2010年2月23日 (火)

第11回北アジア調査研究報告会

3月13日~14日午前に第11回北アジア調査研究報告会、
3月14日午後~15日午前に環日本海地域の古代史・スプリングセミナーが
石川県立歴史博物館・学習ホールで
開催されます

問い合わせは

金沢学院大学
小嶋芳孝さんまで

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2009年10月29日 (木)

桜井茶臼山古墳

Dscn2296_2 近鉄桜井駅を降りて早足で約15分
長谷寺へ向かう道の手前である
南から延びてきた丘陵の先端を利用してその墓が築かれた
北東には三輪山が静かに横たわる
北にまきむくの平野がひろがっていた

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2009年10月13日 (火)

韮山に平泉が見えた

韮山に平泉が見えるか

from 鋤柄俊夫
同志社大学 文化情報学部
http://tsukigar.doshisha.ac.jp/

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